生活信条 第一
浄土真宗の生活信条は、念仏を頂くものの生きる方向、姿勢を表わしたものであります。
一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます。
仏の誓いは、迷いを迷いとも知らず、罪を罪とも思わない苦悩している十方衆生の私たちを真実の世界、悟りの世界、めざめの世界に抱き取って救済する願いであり、誓いであります。その願い誓いが成就されてあるのが南無阿弥陀仏の名号です。この名号を呼び声ともいいます。
私は子どもが三人おりますが、嫁に行った娘も、長男も、二女も、家にもどりますと、必ず「お母さんはどこに行った」と質問をいたします。別に用事がなくとも、「お母さんは」であります。たまには、大きな声で「お父さんはどこに行った」と叫んでほしいときがあります。
しかし「お母さん どこへ行った」と叫んでいるのは子どもでありますが、よくよく考えてみますと呼ばせているのは親の方ではないでしょうか。
常日頃から子どもの成長に親の思い、願い、行いが子どもの心の中に知らず知らずのうちに至りとどいて、親をたよりにし、親を力とし親を懐かしく思うのであります。
子どもは親を依りどころとしているのであります。
「南無せよ、南無せよ、阿弥陀如来がお前をほっておかない、必ず真実の世界、悟りの世界に抱き取って救うから安心してくれよ」と呼んで下さる、働いて下さるお心がお念仏です。
私たちが苦しみ悩んでおれば仏も苦しみ悩んでおられます。私たちが楽しい安心した生活であれば仏も安心しておられます。
「衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽」なのです。
このお念仏を依りどころとさせて頂く人生は、弱い私が阿弥陀如来にはげまされ、抱かれて、強く明るい人生が歩まれるのであります。
『聞法(1999(平成11)年7月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
「おかげさまで」「皆さんのおかげで」「勿体ない事で」「有難い事で」何ともいえぬ響きのある言葉であります。いずれも、自己中心の世界からあふれ出た言葉でないから、相手に感動をあたえるのかもしれません。
スポーツの中で、一番過酷であるといわれるボクシング、あれだけ自己管理を徹底的に行い、いざリングに立ち勝者となっても、「私の努力が、相手よりマサッていました」という勝者はおりません。
ほとんどのボクサーは「皆さんの応援のおかげです。ありがとうございました」と最後にいいます。その言葉には、私がこれだけ努力したから勝つのが当たり前という態度が表れていません。
おかげさまという言葉は、自己の肯定から自己の否定へ、また、他者の否定から他者の肯定への素晴らしい世界があります。
前門様の御消息の中に「念仏の道は、おかげさまと生かされ、有難うと生き抜く道であります」と示されています。
今日を生きる私たちに念仏者の生き様を最も具体的に表現された御言葉であります。しかし、おかげさまを忘れ、有難うと頂く事を忘れた私たちには、強く反省させられる言葉であります。司馬遼太郎さんは「おかげさまでございます。勿体ない事でございます。有難い事でございますという言葉は、私達の先祖の方々の念仏生活の中から滲み出て来た美しい日本語であります」とおっしゃっています。
最近では、言葉や行動の基盤である精神面の育成を軽視することが多くなり、物質・経済が最優先されています。
私たち人間は、他人に迷惑をかけずに生きることは困難であります。自己中心的生き方しか出来ない私がお念仏を申す身になれば、おのずから、おかげさま、勿体ない、有難うの心が恵まれるものであり、それがみ教えに育てられているという事であります。
『聞法(1999(平成11)年7月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
私たちの生活の中で、たいへんなお世話をいただいた方々にご恩を返さなければ、「義理が立たぬ」という言葉を使っています。
たいへん、素晴らしい言葉のようですが、よくよく考えて見ますと人間と人間が五分、五分で生きようとする手段のように思えてなりません。お返しをして帳けしにするということが根底にあるようです。
私の友人が二年前に北海道旅行にいった時、大きなタラバガニを贈ってきてくれたのです。たいへんおいしくいただきましたが、その後、去年の二月に私も札幌の雪まつりに出かけた時、頂いたタラバガニを思い出しまして、早速友人の家にタラバガニを贈ったのです。皆さんも同じようなことを繰り返し生活していると思います。
阿弥陀如来と私の関係においても、このような考え方があります。
如来様に何かをお願いして、うまくいけばお返しをする、それがお念仏になっていませんか。もし、お願いしたことがうまくいかなければお念仏が出てこないということを体験したのではないでしょうか。そのような念仏を相対報恩の念仏といいます。
御恩報謝の念仏はいつどのようなときでも、あふれ湧きでるものであり、絶対報恩の念仏です。
お礼をいうのに二通りあるといいます。お正月はお年玉ですが、子どもさんはおばあちゃんからの予想金額を頭の中で描いています。その予想額以上につつまれていた時は満足感がいっぱいで、元気のいい心のこもったお礼をいいます。しかし、予想額以下の場合はどこかで調整をしなくてはなりませんから、心のこもったお礼は期待できません。
予想以上に入っていた“ありがとう”と予想以下に入っていた“ありがとう”とは同じありがとうでも違うのです。予想以上は満足感がいっぱいの、真のお礼です。予想以下は、まだ、ほしいという心が残ったありがとうであります。
親鸞聖人は如来の救いに満足した御恩報謝の念仏のありがとうでありました。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
毎日の生活を振り返りますと、疑う時に不安があり、信ずるところに安らぎがあります。
通勤電車に乗るとき、今日、運転手の名前、車掌の名前は、と確認する人はいませんが、一度事故が発生いたしますと、不安がおそってまいります。
人間は様々なものを一応信じて、拠りどころにしなければ生きられないのであります。
「維摩経」の教典に仏をたとえた部分があります。「仏の大悲は人によって起こりこの大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。それは子を愛することによって、母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである」といわれています。
母は赤ちゃんに「オッパイちょうだい」「育ててちょうだい」と願われたから育てましたという母親はおりません。母は子どもに頼まれて育てるものではありません。
子どもに願われなくても、頼まれなくても子を育ててこそ母であります。
この私に、仏は大悲心を起こされたのであります。そして無条件に救いの手を差し出されているのであります。
仏は私たちに「信じなさい」「頼りにしなさい」と条件を出されているのではありません。信じたならば頼りにしたならばでは、仏と私との間の取り引きになってしまいます。取り引き、商売の信心ではありません。
ある念仏者が山犬におそわれた時、山犬に向かって合掌して、お念仏をしたそうです。その時、山犬は逆に山の方に逃げたということであります。
この話をここまでで終わりますと、念仏によって山犬は逃げたのでありますから、念仏のご利益であります。
しかし、念仏者は山犬の難をのがれたことを喜んではいません。むしろ山犬が逃げた時、泣きくずれたそうです。人を食うのが当然である山犬ですら、念仏者の姿には愛想をつかして逃げてしまった。
三世の諸仏から見離されたということは、日頃聞かされていたが全くのうわの空で聞いていた。今日はほんとうの御説法にあったというのでした。
この念仏者は、わざわいとしあわせの私欲の場には南無阿弥陀仏は全く使われていないのであります。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
阿弥陀如来は自分一人だけが仏になろうというのではなく、私たち十方の衆生を救うことをさとりの内容とし、条件としています。
「私たちの往生」と「御自身のさとり」とを一体(一つ)に誓っておられます。
私の娘が高校受験に失敗した時、親子とも暗い日々が続いたのを記憶しています。私たちの生活も親がわが子の不幸をさしおいて、親だけが幸せになれるものではありません。親にとって子どもの幸せが、親の幸せになるのであります。
この私を救うてくださる阿弥陀如来は誰でも称えやすく、たもちやすい名号「南無阿弥陀仏」として、私たちにあたえてくださったのであります。この名号は、私たちが煩悩のため仏を見ることができないので、その世界に向って大声で存在を知らせる“名のり”であります。「名」という字は、夕方の“夕”という字と“口”という字が一つになった字であって“夕”になりますと暗いから、相手の顔がわからない、そこで“口”で自分の名前を名のり相手に告げるということであり、「号」とは“号令”の意であって、大声をあげるということであります。
名号は、私たちに称名を「南無阿弥陀仏」と働きかけています。その名号の働きによって称名となるのであります。私が称える念仏は仏が働きかけてくれた念仏であります。
私たちが仏になる願いと行(願行)の因も、往生の果もととのえられているのが「南無阿弥陀仏」であります。
それを親鸞聖人は「本願成就の名号」といわれています。
”成就“ということは「なしとげること」「できあがること」という意味ですが、曇鸞大師は”成就“を次のように御解釈なされています。
「願いが成就したということは、願いが願いであることにとどまらず、願いを実現すべき働きをそなえたということになります。そして、その働きがからまわりすることなく、願いの通り動くということであります。
願いと働きがつりあい、少しもくいちがわないことを成就という」と言われています。
私たちが銀行に預金をするとき、年にいくらの利子がつくことをわかって、預金をするのであります。すると銀行の方では、その預金高により、はたらき、利子がつくのであります。願いとはたらきがつりあってこそ、安心できるのであります。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
「五劫思惟之攝受」と葬儀の正信偈では声を高くして称えます。これは五劫という長い間、考えに考えぬいて思惟に思惟を重ねられた結果、ついに救いとり、仏にすることのできる方法を見い出したということを強調しています。
ものごとを解決する場合、それに要する時間が長ければ長い程、難しい問題点を抱えているものです。それゆえに私の生き方がそれだけ愚かであり、悪である事実が「五劫思惟」の文字に明らかにされているようです。
一言でいえば自分はエライもの、賢いものと勝手に思っているが、その逆の「罪悪深重の身」でしかないということです。
もちろん、そのことを自分で意識しているかいないかは別です。事実として私は罪と悪が深く重い生きざましかしていないのです。
悪の行為、日常的な行動に意識されるものと無意識のものとがあります。意識されるものは軽く浅いものではないでしょうか。
これに対して深く重いものは意識できにくく分かりにくいものです。意識できてもやめにくい。
「分っちゃいるけど、止められない」のが私たちの本性ですから、意識もなく、分ってもいないことがらについては改まることはまずあり得ないのであります。
「改まることがない」ところに「深重」の語を付している意味があるに違いありません。
したがって、悪人の悪人たる所以は、過去も、今も、未来にも「改めない」「改まらない」ところにあります。
これを仏教では、
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなき身」といいます。これが私の本質であります。
悪の意識があれば悪いことをした、二度とやらないようにして、直してゆきたいという心が起るはずなのに、それができません。だから、阿弥陀如来は私を愚人であり悪人であるとしめされました。私たちには清浄な心もありませんから、その点からいえば粗末な「いのち」です。
しかし、どんなに粗末なものであっても阿弥陀如来はこれを粗末なままで終わらせないために本題を建て「仏になるいのち」となしてくださったのであります。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
私の娘が小学校六年生のある晩、楽しそうに旅行の用意をしているのです。私は「修学旅行って、そんなに楽しいか」と尋ねると、娘は「そりゃ楽しいで…友達と枕なげをして、朝まで話をするねん」と答えていました。
「人生は旅」とよくいわれますが、旅の行き先(目標)があるはずです。旅をするのに大事なことは「どこに行って、何をするか」また「何をするために、どこへ行くのか」ということであります。人生の旅はやり直しができません。この命が終わって、期待したほどでなかったから、もう一度という訳にはいきません。人生の真最中にあるものにとっては、まさに一大事の問題です。
娘も学校の友達と泊まることは一大事なことでしょう。またすべてが、学校側で用意されている所へ往くのですから、安心で楽しい日々があるんです。そしてきれいな景色、みんなと食べる豪華な食事、その他たくさんの楽しいことがあると思います。しかし、よくよく考えてみますと、旅先で楽しく過ごせるということは、帰って往く家庭があり家族があるからです。もしも、旅先で「あなたのお家が火事で焼けましたよ、悲しいことにお父さんが、お母さんが…」と先生から伝えられたとき、旅行は安心から不安となり、楽しみなどありません。私たちの人生も必ず帰って往く浄土があるからこそ、今を生きれるのではないでしょうか。
ご門徒の方で「ご院さん、私が死んだら頼みまっせ」とよく言われる。私は「何を頼まれたのか」考える時があります。その方は「よい所へ、浄土へ参らせて下さい」とお願いしているのだと思う。しかし都合よい話であります。それも死んだらと念を押して、言っておられます。ご本人が今、人生の旅の真最中であることを忘れ、死んだらお浄土という良い夢を見ています。私の旅の目標は「必ずお浄土に生まれさせていただくにまちがいない身」にさせていただくことなのでありますから、真剣に阿弥陀如来のみ教えを聴聞し、お念仏させていただくことなのです。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
「聞く」という行為には、聞き違いということが生まれてきます。
何を聞き違いするのでしょうか。
私たちは親鸞聖人のお言葉を求道のところに持ち込んで、み教えを聞いているからであります。
絶対他力の救いとは、絶対とは無条件という意味ですから、何も用意するものはないし、他力、本願力ですから、仏にまかしとけばよいという聞き違いがあるようです。
このままで絶対他力におまかせすればよいということではありません。
この信心の味わいが身につくまでのは、親鸞聖人は命がけの聴聞をなされたことを忘れてはなりません。
信心の味わいを求道のところに持ち込んで仏教を本気で聞こうとしないのは大きな誤りです。
私たちは何を「聞く」のでしょうか。
親鸞聖人はお経に「聞其名号」(その名号を聞く)とありますのを解釈されて、
「衆生仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、これを聞というなり」とおっしゃっています。
単に南無阿弥陀仏の意味を聞き、理解するのではありません。お念仏をいただく時、今、私の口から南無阿弥陀仏のお名号が出ている。何故出ているのか。出ているということは私の「いのち」にとってどういう意義をもつものなのか。その「ことわり」を聞くのであります。
私たちはこの生を受け、与えられた寿命を生き死んでいきます。では何をしに生まれたのでしょうか。
死にたくないのになぜ死なねばならないのでしょうか。この問いに答えてくださったのが阿弥陀如来であり、親鸞聖人であります。
この世に生まれたのは如来の本願の法にあうためであります。なんのために人生を生きてゆくのか。如来のご本願を聴聞し、お念仏をいただき喜び伝えるためであります。なんのために死ぬのか、浄土に生まれて仏にならせていただくためと胸をはって生きることを聞かせてもらうことです。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
浄土真宗でいう求道の姿勢とは、「よく聞く」ということであります。
分からなくなれば、よき師に「教えを仰ぐ」ことも重要であります。しかしながら、早く理解というか、納得をしたがる人がおります。「生死の一大事」を簡単に解決することはできません。長く真面目にご聴聞することが一つの味、生き方となってあらわれてくるものです。
最近では、ある食品会社が、ただちに漬物が出来るという液体を販売しています。
どういう味であるかは知りませんが、昔ながらの方法で、新鮮な野菜を寒風の中にさらし、水分をある程度取り除いてから、何十年とたった糠の中に入れ、大きな石で重しを載せ、何日も漬けます。それであの味ができるのです。あの味は簡単には出来ないのです。
大谷光照前門さまの『教えを仰ぐ』という本の中に、
「お浄土を見せたら信ずる、 仏様を拝ませたら信ずるという人があるがそれは出来ない事である。
見せたら信ずるという事は、あたかも食べた事のない珍しい菓物を出された場合に、先にその味を分からせてくれたら食べるとおなじ。
先に味を知らせる事は出来ないので、食べているうちに、自然と味が分って来るのである。
お浄土も仏様も、じっと聞いて居るうちに、自然と見たよりも、拝んだよりも確かに信ぜられるようになるのである」
とお書きになっています。
味が分ってから食べるものではなく、食べるうちに味が分っていく。そして、その味のご苦労が私をつつみ込んで行くのであります。
お茶・お花を習う前に、その奥深い事柄を分ってから、稽古をはじめようとする人は一生涯習うことはできません。
稽古をやっているうちに自然と会得されていくのであります。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より
浄土真宗でいう求道の姿勢とは、「よく聞く」ということであります。
分からなくなれば、よき師に「教えを仰ぐ」ことも重要であります。しかしながら、早く理解というか、納得をしたがる人がおります。「生死の一大事」を簡単に解決することはできません。長く真面目にご聴聞することが一つの味、生き方となってあらわれてくるものです。
最近では、ある食品会社が、ただちに漬物が出来るという液体を販売しています。
どういう味であるかは知りませんが、昔ながらの方法で、新鮮な野菜を寒風の中にさらし、水分をある程度取り除いてから、何十年とたった糠の中に入れ、大きな石で重しを載せ、何日も漬けます。それであの味ができるのです。あの味は簡単には出来ないのです。
大谷光照前門さまの『教えを仰ぐ』という本の中に、
「お浄土を見せたら信ずる、 仏様を拝ませたら信ずるという人があるがそれは出来ない事である。
見せたら信ずるという事は、あたかも食べた事のない珍しい菓物を出された場合に、先にその味を分からせてくれたら食べるとおなじ。
先に味を知らせる事は出来ないので、食べているうちに、自然と味が分って来るのである。
お浄土も仏様も、じっと聞いて居るうちに、自然と見たよりも、拝んだよりも確かに信ぜられるようになるのである」
とお書きになっています。
味が分ってから食べるものではなく、食べるうちに味が分っていく。そして、その味のご苦労が私をつつみ込んで行くのであります。
お茶・お花を習う前に、その奥深い事柄を分ってから、稽古をはじめようとする人は一生涯習うことはできません。
稽古をやっているうちに自然と会得されていくのであります。
『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より


