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青色青光

 この世に生まれてきた以上、悔いのない一生を、むなしくない人生を送りたいと誰しも思っています。

 相田みつをさんの詩に、「この世は私が私になるところ、あなたがあなたになるところ」とありますが、私が私であってよかったと、自分の花を咲かせ、いのちを輝かせて生きていきたいです。

 『阿弥陀経』に、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」とあります。お浄土の蓮の花はそれぞれ光輝いているということですが、念仏者は生まれや境遇、顔かたちや性格や才能が異なっても、それぞれ自分の花を咲かせ、いのちを輝かせて生きていくことができるということです。タンポポが、チューリップやバラの花を咲かすことは不可能です。タンポポはタンポポ、バラはバラです。しかしタンポポが見事にいのち一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことです。他の花と何ら遜色はありません。要は如何に自分の花を咲かせ、いのち輝くかです。

 「小さきは小さきままに花咲ける 野辺の小草の安けきを見よ」という歌がありますが、たとえ小さくても、太陽の光に照らされ精一杯自分の花を咲かれていることは見事なことです。人に知られようが、知られまいが、何の不平もなく安らぎに満ちています。

 月に向かって、「何故あなたはきれいなのか、輝いているのか」と聞くと、きっと月は「私は黒い塊だが、太陽の光によって輝いているんだ」と答えるでしょう。親鸞聖人は、石、瓦、つぶてのガラクタでも、光に遇うと金のように輝くと述べられています。

 私たちは自我中心に生き、他人の目を気にして自分を飾り、比較して思いあがったり、落ちこんだりして虚しい日々を過ごしていますが、阿弥陀さまの光に遇い、お念仏申す身になってこそ、私が私であってよかったと、いのちを輝かせて生きることができるのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 ご和讃に、「南無阿弥陀仏をとなふればこの世の利益きはもなし 流転輪廻(るてんりんね)のつみきえて定業中夭(よう)のぞこりぬ」とありますように、お念仏をとなえる身になることは、この上ないご利益を賜わるのです。よく浄土真宗にはご利益がないといわれますが、そんなことはありません。人間として生まれ、最高の喜びが与えられるのです。長い長い迷いから解放され、中夭(よう)とは早死にということですが、たとえ早く死ぬことになっても、確かな生の依りどころ、死の帰するところが明らかになることによって、本当に私が私であってよかったと、悔いのない人生を歩み、いのちを輝かせてお浄土へと帰っていくことができるのです。

 念仏して、苦しみがなくなるのではありません。念仏して苦しみをのりこえていけるのです。念仏すると、この苦しみの現実が変わるのではありません。どうにもならぬまま現実が輝いていくのです。

 昨年、富山県のお寺へ布教に行った時、重度の障害者の方が不自由な口で、「お念仏の教えは、こうしなければ救われないというものが何もありません。このままの私がこのままで良かったんです」と、うれしそうに話してくださいました。阿弥陀さまは、私たちに何の条件や注文をつけずに、「あなたはあなたのままでいい」と喚び続けてくださっています。すべての人がありのままの姿で救われていく道がお念仏の教えです。

 お念仏に遇うということは、生老病死するいのちの事実から逃げ惑うのではなく、それを引き受けさせていただく真実の智慧と慈悲を阿弥陀さまからいただくことができるのです。いままで苦であると思っていたことが、真実の眼を開かせていただくことによって、ただいまの身を納得していけるようになり、如来の大悲あるが故に苦しみの中、苦しみをのりこえていけるのです。

 「お念仏したら何かご利益があるのですか?」
 「お念仏申す身となることが最高のご利益です。」

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 青木新門氏の「納官夫日記」の中で、「現代人に宗教を説き、信を求める時、この不可思議光が万物一切の本質であり、宇宙の真理であることを、どのように納得させ得るかが、問題なのである」と、提起されています。

 その通りだと思います。いくら阿弥陀如来が尊い仏さまで、十方衆生を必ず救うと誓ってくださっているといっても、現代人がその如来の働きに納得し、実感しなければ信にならないし、生きる力となりません。

 不可思議光とは阿弥陀如来のことであり、如来とは真如(宇宙の真理)より来て、いま現に私の上に働いているという意味です。どのように働いているかというと、お念仏となって私たちに喚びかけ、光となって私たちを照らしているのです。

 真如とは真実と同義語であり、「ありのままのすがた」ということです。真実とは真実それ自身が不実に働き、不実を不実と気づかせ真実へとかえしめる働きをもっているのです。つねに不実に向かって、「真実にめざめよ」と働き喚びかけているのです。

 また「真実は如来なり」、「如来は光明なり」といわれるように真実は必ず光となって不実を照らし、闇を闇と気づかせ、闇を破る働きをもっているのです。闇を闇とも気づかない私たちが、光に出遇った時、闇であった、愚かな凡夫であったと気づき闇が破れるのです。〝真実にめざめよ〟という喚び声や、つねに私たち照らしている光は、何時(いつ)から働いているかというと、久遠劫という遠い昔から働き続けているのです。それ故、無量寿・無量光の如来(阿弥陀如来)というのです。

 如来の光とは、人間の知恵や分別で思議できるものではありません。色や形もなく肉眼で見えるものでありません。しかし間違いなく、いつでもどこでも私を照らしてくださっているから不可思議光如来と呼ばれるのです。私が煩悩具足、罪悪深重の凡夫であったと気づくことは、不可思議光が現に私の上に働いてくださっていることの何よりの証明です。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 仏教とは、仏の教えであると同時に、私たち凡夫が仏に成ること(成仏)を目的としています。また迷いを転じて悟りを開くこと(転迷開悟)をめざしています。仏に成るとは、迷いの世界から悟りの世界へ到ることです。

 仏とは、覚者・悟った者といわれるように迷いから悟りへ到達された方をいいます。逆に如来とは、「如より来生して」と言われるように、真如である悟りの世界から、私たち凡夫の迷いの世界へ来て働いてくださっている方をいいます。阿弥陀とは「無量寿・無量光なるが故に阿弥陀と名づく」と述べられているように、阿弥陀如来とは、限りない命(寿)と光である真如が私たち凡夫のところに来て、いつでもどこでも必ず救うと働いてくださっている仏ということです。

 私たちが迷いから悟りに到るために、自力で厳しい修行を実践いていく道もありますが、私たち凡夫にとって煩悩を滅すということは至難のわざです。仏教を学ぶこと、仏道を歩むことは、私が立派な人間や秀れた人間になるのではなく、逆に私自身の本当の姿が明らかになっていくことなのです。如来の真実・光に照らされ罪悪深重煩悩具足の凡夫である私自身の姿が知らされてくるのです。

 たとえば太陽の光に照らされると、塵(ちり)や埃(ほこり)や汚れがはっきり見えてくるように、私自身の底知れない闇の深さが明らかになるのです。何が私の姿を気づかされるのかというと、無量寿・無量光なる如来が私を照らしてくださっているから気づくのです。

 阿弥陀如来は、いま現に確かに私の上に働いてくださっているのです。私たちはいま、阿弥陀如来の摂取不捨の光明に包まれ、喚びかけられているのです。仏法を聞き、如来の働きに気づくということは、私自身の姿が知らされると同時に、如来の大悲に気づき、お慈悲のぬくもりを感じて生きる大きな力となるのです。自力で仏に成ることができない私たちが、阿弥陀如来に支えられ、浄土への道を歩み、浄土で仏に成る教えが他力の教えです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 以前掲示板に、
「死ぬことはあたりまえ、生きていることが不思議」と書きました。死ぬことはあたりまえです。生きているということは、必ず死ぬということです。よく云われるように、人間の死亡率は百%です。一%も狂いません。老少不定で順番がなく、いつ死ぬかわかりませんが必ず死にます。早いか遅いかの違いです。

 逆に生きていることが不思議なのです。私たちは、いつ死んでも不思議ではありません。昨日まで、さっきまで元気だった人が突然に亡くなられたということはよくあります。お寺に住んでいると、そういう場に出会うことが多いです。少し前も五十才の男性が一瞬のうちに心臓病で亡くなられました。お母さんと奥さん、「さっきまで元気だったのに」と嘆いておられました。

 私たちは今、ここに生きているということは大変なことです。いつ死んでも不思議ではない私が生かされているのです。あたりまえではありません。目には見えませんが、多くのいのちの働きのおかげで生かされているのです。私たちのいのちは、自分が作ったいのちではありません。神が創ったいのちでもありません。無数のご縁によって生かされているいのちです。本来自分のものは何一つないのです。すべておかげさまなのです。

 しかし私たちは生かされていることを忘れ、自分の力で生きていると思いあがり、いのちの事実を見失っています。生かされている感謝を忘れ、すぐにあたりまえになり、感謝どころか少しでも具合が悪くなると、「足が痛い腰が悪い」と腹をたて愚痴をこぼしています。

 仏法を聞くということは、お念仏に遇うということは、〝あたりまえ〟が〝おかげさま〟に転じられてくるのです。自我のメガネで見ていた時は不平不満で一杯であったが、阿弥陀さまに自我のメガネをとっていただき、その眼で見たら生かされている事実に気づき、喜びや感謝で一杯になるのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 真実とは原語でtattvaといい、「ありのままのすがた」という意味です。

 私たち凡夫は、ありのままをありのままに見ることはありません。自我という色メガネをかけて見ているから、正見や如実知見(ありのままに見る)はできません。同じ者を見ても、十人十色で人によって見方はさまざまです。また私自身でも、立場や状況や年令によって見方が変わることが多いです。私たちの見方の根底には自(じ)是(ぜ)他(た)非(ひ)の心が働いていますから、冷静にみているつもりでも、自分の見たいようにしか見ていないのです。みな自分の色メガネで見て、善悪・正邪・好嫌を判断しているのです。

 アナウンサーが、「今日は良い天気でした」と放送すると、よく苦情の電話がかかるそうです。天気に良い天気、悪い天気はありません。雨が降った方が、雪が降った方が良い天気の場合もあります。以前、雨の日にタクシーに乗った時、「今日は雨で嫌な天気ですね」というと、その運転手さんは、「私たちは雨の方が儲かって良い」と話していました。また、涼しい夏に電器屋さんと話した時、「今年の夏は涼しくて良いですね」というと、「今年はクーラーが売れずに困っている」と話していました。

 よく「自分のことは自分が一番知っている」といいますが、それも自我という色メガネで見た自分でしかありません。自分で自分を知るということは、「自分の眼で自分の眼を見るようなものだ」といわれています。私たちの自我という色メガネでは他人の非は見えても、自分の間違いや欠点や愚かさは見えにくいのです。

 いつもお念仏を称えているお婆ちゃんに、「どうしてお念仏を称えるのですか」と聞くと、お婆ちゃんは、「私はお念仏を申さんかったら、すぐに〝我〟というやつが出てくるから、阿弥陀さまが、また思いあがっとるぞ、自分を見失ってるぞと、南無阿弥陀仏となって私の口を通して注意してくださっているのです」と、話されていました。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 「善いことをしようと思えばすぐ出来る。悪いことをやめようと思えばすぐやめられる。これを思いあがりという」という言葉があります。善いことをしようと思っても、悪いことをやめようと思ってもなかなか出来るものではありません。

 私たちは人にやさしくしよう、善いことをしてあげようと思っていても、相手の出方次第ですぐにその気持ちがくずれていきます。「もっとやさしく言えばいいのに」とか、「そこまで言わなくてもいいのに」とか、「折角やさしくしようと思っていたのにあんな態度はないよ」と相手を責め裁いています。愚痴がでてきます。

 私たちは腹をたてまいと思っていても、腹をたてる縁がくればいつの間にか腹をたてています。逆に腹をたてようと思っていても、縁がなければ腹がたつものではありません。すべて縁次第です。これは教養があるとか、学問をつんでいるとか、よく修行をしているとかは無関係です。煩悩とはそういうものを超えておこるのです。それは人間の本性が、どこまでも煩悩具足の凡夫であるということです。

 評論家の江坂彰さんは、「私はサラリーマン時代、役員寸前でトップの勢力にまきこまれて、左遷されたというにがい体験をもっている。悲しみで心が騒いだ。こんなに懸命に社会のために頑張ってきたのにという無念さもあった。『歎異抄』が読みたくなった。声を出して読んでいるうちに、私を飛ばしたトップに対する怨念は、ふしぎなほど跡形なく消えていった。かりに立場が逆なら、私もまた自分を飛ばした上司をけ飛ばしてしまっただろう。殺すか殺さないかは、ほんのわずかの差でしかない」と述べられていました。

 殺すも殺さぬも、腹がたつのもたたぬのも縁次第です。さるべき業縁がもようさば如何なる振舞いをするかわからない私にとって、お念仏を生きる依りどころとし、お念仏申して生きるしかないのです。 

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 ご門徒の法事の席で、こんな質問を受けました。「阿弥陀如来は、どんな極悪人でもお念仏一つで救われると聞きましたが、本当ですか、どうも納得できません。」

 この問いに対して私は、「阿弥陀如来は、どんな極悪人でもお念仏一つで必ず救うと誓ってくださっています。もし見捨てられたら阿弥陀とはいえないのです。たとえば親にしても、出来の良い子悪い子といます。出来が悪いからといって見捨てることはできません。出来の悪い子ほど心配です。出来が悪いからといって見捨ててしまえば親であることを放棄することです。悪いことをしたことは許すことはできないが、どうしても見捨てることはできないのです。阿弥陀如来は、どんな悪いことをした人にでも見捨てることなく、「阿弥陀仏に南無せよ」、「真実にめざめよ」と喚び続けてくださっているのです。」と答えました。

 親鸞聖人は阿弥陀を何故、阿弥陀というかといえば、「摂取して捨てないが故に阿弥陀と名づける」と教えられています。たった一人でも見捨ててしまったら阿弥陀といえないのです。

 もう大分前になりますが、大阪で銀行襲撃事件がありました。行員と警官三人を殺し、行員を人質にして立て籠もっていた時、犯人説得のためにお母さんが呼ばれていました。隙を見て警官が入り、犯人を射殺して病院に運ばれ、お母さんも一緒に病院に行かれました。その時大勢のマスコミの人達も取材に行き、お母さんにマイクを向けると、お母さんはマスコミの人達にこう話していました。「私だけはこの子の味方でいてやりたい」と。この言葉は、悪いことをしたことは決して許すことはできないが、我が子をどこまでも見捨てることはできないという母親の大悲の叫びです。

 私たちも阿弥陀さまの心に気づかず、煩悩一杯の日暮らしをしていますが、その私たちに阿弥陀さまは「どんなことがあっても決して見捨てない」と、南無阿弥陀仏となり喚び続けてくださっているのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 鈴木章子さんが、モルモン教の宣教師さんと、仏の慈悲と神の愛の違いについて話し合われた時、
 「わたしとっても悪い子。仏さんのいうこときかない悪い子。仏さん南無阿弥陀仏の涙ポロポロこぼして、わたしを追いかけてくる。わたし悪いことすればするほど、如来さん泣いて追いかけてくる。それ大慈悲ネ。神さまの愛ちがう。神さまいうこときく子いい子、背く子悪い子。そこ、神さまの愛と慈悲はちがう」と、片言の英語で話されたそうです。

 私自身、僧侶として袈裟をかけ法務に励んでいますが、日々の生活は煩悩に振り回され、仏さまに背いた悪い子です。仏さまに願われていても、仏さまのことはほとんど忘れています。「逃ぐるもの」とは、まさに私自身のことです。この私をめあてに、阿弥陀さまはいつでも南無阿弥陀仏の涙をポロポロ流しながら、私を追いかけてくださっているのです。

 また私たちはお念仏に遇い、お慈悲が喜べたと思っていても、その喜びはすぐに消えて逃げていきます。いつでも喜びが持続するということはありません。信心をいただければいつでも喜べるという公式はないのです。「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざる煩悩の所為なり」といわれるように、私たち煩悩具足の凡夫は、喜んだと思っていても思い通りにいかないことに出会うと、すぐに腹をたて愚痴をこぼしています。浅原才市さんは、「よろこびはかぜのようなもので あてにならぬ ふいてにげるよ あとかたもなし」と歌われています。

 そうですから私たちがお慈悲が喜べたことがありがたいというよりも、すぐに喜びが消えて逃げる私をどこまでも摂取して捨てないと働き、喚び続けてくださっている阿弥陀さまのお慈悲がありがたいのです。たのもしいのです。そこに私たち凡夫が救われていく唯一の道があるのです。ただ念仏しかないのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

 仏教を学ぶということは、「学仏大悲心」といわれているように仏の大悲心を学ぶことです。阿弥陀如来が、苦悩の有情を必ず摂取して捨てずと働いてくださっている大悲心を学ぶことです。仏教を聴聞するということも同様に、仏の大悲心を聞くのです。仏の大悲心を聞くということは、頭で理解したり覚えたりするのではなく、全身でお慈悲のぬくもりを感じることです。摂取不捨の光明に照らされていることを我が身に感じることです。感じることによって、生かされている喜びと安らぎが生まれてくるのです。

 お念仏を喜んでいるひとは、「お慈悲はぬくいですなあ」と喜ばれています。浅原才市さんは、「くらがりわしの心に灯がついた。ご恩うれしや南無阿弥陀仏」と歌われています。また榎本栄一さんに、「私をみていて下さる人があり、私を照らしてくださる人があるので私はくじけずに今日を歩く」という詩があります。

 人間の知恵や知識より感じることの方がずっと心に響くのです。いくら仏教を深く学んでも、お慈悲のぬくもりを感じなかったら、喜びはありません。生きる力になりません。以前有名な宗教学者が苦しみに直面した時、今まで学んだ仏教が何の役にもたたなかったと告白していましたが、それは学問として薬の成分や効能をよく学び理解したとしても、本人が薬を飲まなかったら病気が治らないのと同じです。大事なことは、お念仏の薬を飲むことです。お慈悲のぬくもりを感じることです。

 仏さまの働きは、私たちの目で見ることはできません。しかし仏教を繰り返し聞くことによって仏さまの働きを感じることができるのです。本来仏とは、いろも形もなく、いのちの働きそのものです。形あるものは必ず壊れますから真実ではありません。

 永遠に滅びない真実がただ一つ、南無阿弥陀仏となって私に絶えず喚びかけてくださっているのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より

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