本当の幸福
「人間の本当の幸福は、歳をとるにつれて幸福だと感じる人生をもてることです」という言葉に出遇いました。
私たちが“煩悩の命令”だけに従った人生を歩むなら、歳をとるにつれて幸福だと感じる人生をもてるはずがありません。歳をとるということは、老いや死が近づき、境遇がいろいろと淋しくなることが多いですから、「歳をとるにつれて淋しくなる」という声をよく聞きます。
昨年、NHKの豊臣秀吉の番組を見ていたのですが、晩年はとても淋しそうでした。いくら最高権力者といえども、この人生思い通りにいくはずはありません。いのちの依りどころ、いのちの帰っていく処が明らかにならない限り、歳をとるにつれて幸福だと感じる人生をもてないのです。煩悩の命令だけに従った人生は、「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことも夢のまた夢」と、淋しく人生を終えていかねばならないのです。
しかし仏の命令を聞いている人は、生かされている喜びがあります。いのちの依りどころ、いのちの帰っていく処が定まっているので、たとえ一人ぼっちになっても、病気を抱えていても、末期の癌で「あとわずかの命です」と宣告されたとしても、与えられたことを受けとめ、いのちを輝かして生き抜くことができるのです。安心して生き安心して命終えていくことができるのです。歳をとるにつれて幸福だと感じる人生をもてるのです。
『癌告知のあとで』の著者、鈴木章子さんに「この生」という題の詩があります。
「仏さまのおことばがわかる今の生をいただきましてありがとうございました。仏法をお聴かせいただく身にさせていただきましてありがとうございました。お念仏をいただくことができましてありがとうございました。喜んでこの生終わらせていただきます。」
この世に生まれて、お念仏に遇うことなくして命終えていくことは、とても残念なことです。
『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より
南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に南無します、信順します、帰依しますということですが、私が南無するということは、仏の方から南無させる働きがあるから南無するのです。私たちが真実を求めようとすることは、必ず真実からの働きかけがあるからです。
それ故、親鸞聖人は、南無とは帰命ということで、帰命とは「本願招換の勅命」と教えられています。それは阿弥陀仏の方から、「阿弥陀仏に南無せよ」、「我にまかせよ」と命ずる喚び声であるということです。勅命とは仏の命令ということですが、私たちが否定しても否定できない、頭が下がらざるを得ない真実そのものであり、その真実の命令に従うということが、阿弥陀仏に南無しますということです。
しかし私たちは、なかなか仏の命令に従おうとしません。私たちの日常生活は何の命令に従って生きているのでしょうか。ほとんど自分の煩悩の命令に従って生きているのです。煩悩の数は多いですが、とくに三毒の煩悩といわれる貪欲・瞋恚・愚痴に振り回されて生きています。もっと楽がしたい、金持ちになりたい、出世したい、いい学校に入りたい、長生きしたいとか欲望の満足を求めて生きています。そして自分の思い通りにいかないとすぐに腹をたて、争い、憎しみ、愚痴をこぼして虚しい日々を過ごしています。
私たちにとって煩悩は死ぬまでなくすことはできません。また押さえようとしてもなかなかできるものではありません。私たちの日暮らしは煩悩の命令に従って生きていますが、この人生思い通りにいくはずはありません。一寸先は闇です。いつ逆境におち入るかわかりません。この煩悩の命令だけに従った人生は虚しいんです。淋しいんです。私たちに虚しい人生を送らせないために、真実の世界から「真実にめざめよ」と働いているのです。お念仏に遇うことによって、煩悩に振り回されない、煩悩を超えた人生を歩ませていただくことができるのです。
『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より
お念仏は阿弥陀如来から、私たちに届けられたプレゼントなのです。最高の贈り物です。
阿弥陀さまが私たちの姿をよく見抜かれ、何を贈ればよいかと長い間思案に思案を重ねて、これだったら私たちが本当に喜び、生きる大きな力になると気づかれ、お念仏を届けてくださったのです。
プレゼントというのは、相手のことをよくよく考えて贈らねばなりません。相手の嫌いなものや、たくさん持っていそうなものや、全く必要でないものを贈っても相手は喜びません。それはその人にふさわしいものではないからです。その人が何を喜ぶか、何がふさわしいかをよく考えて贈らねばなりません。
阿弥陀さまは、私たち凡夫の正体を見抜き、本音をいいあて、私たちがこの人生を生きていく上でもっともふさわしいものをプレゼントしてくださっているのです。
しかしながら私たちにとって最高のプレゼントであるにもかかわらず、これを喜ばない人が多いことは大変残念なことです。
それは何故かというと、私たちが自分の正体を知らないから、自分にとってふさわしいプレゼントであることがわからないのです。阿弥陀さまが私たちの器量を見抜き、多くの教えの中からただ一つお念仏を選び、私たちの器量に合わせて届けてくださっていることに気づいてないからです。たとえば大変よく効く、素晴らしい薬だから飲みなさいとすすめられても、自分の病気に気づかねば薬を飲まないのと同じです。病気でないのに薬を飲む人はいません。
しかし私たちが仏法を聞き、自分の正体に気づかされると、どこまでも煩悩具足の凡夫の姿が明らかになってきます。すると私にとってお念仏が何より最高の贈り物であることに気づき、喜ばせていただくのです。しかもこの阿弥陀さまからのプレゼントは、無条件でいつでもどこでも私たちに贈られるのです。このプレゼントを素直にいただきましょう。
『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より
ある雑誌に
「みんなに分かるお念仏を伝えてもらいたい。いま称えられているお念仏はわからない。お念仏は意味深く、有り難い言葉の宝庫なのにまるで暗号でしかない。“分からなくても有り難いのだ”では呪文にすぎない。今の人たちにも容易に分かるお念仏こそ、私の一番欲しいものである」と書いてありました。
確かに現代人にとって、お念仏がわかりにくくなっているように思います。一般にお念仏といえば、先祖供養のために称えるものであり、また願いごとをかなえるための呪文か、極楽まいりの切符としてしか受けとめられていません。
このままではいけない。みんなにわかるお念仏を伝えなければいけない。世界中の人々が共感でき、生きる依りどころとなるお念仏を伝えなければいけない。親鸞聖人の伝えられたお念仏は浄土真宗だけのものではありません。生きとし生けるすべての人に平等に働いているのであり、普遍的なものです。現在お念仏を喜んでいる人は、アメリカにもヨーロッパにも、オーストラリアにもアフリカにも世界中にいます。しかしまだまだほんの少しの人です。「お念仏を世界や子や孫に」というスローガンがありますが、世界中の人々と共に、お念仏を称えながら真実の世界であるお浄土への道を歩みたいものです。
お念仏とは、私たちを生かしめている大いなるいのちの働きが、南無阿弥陀仏という言葉になって働いている“いのちの喚び声”です。大いなるいのちの働きである阿弥陀如来が、自我中心にしか生きられず、いのちの事実に背いて生き苦悩している私たちを必ず救うために南無阿弥陀仏となり、「阿弥陀仏に南無せよ」、「我を生きる依りどころとせよ」、「真実に帰依せよ」と絶えず喚び続けてくださっているのです。
お念仏はどこまでも私たちに、真実へのめざめを促す“いのちの”メッセージなのです。
『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より
私の尊敬し、お世話になっている先輩が、ご門徒さんのお家へ月忌参りに行かれ、繕い物をしておられたので、「繕い物ですか」と声をかけると、「はい。しかし、この年寄りの私でも、もうこの足袋ははけません」と言いながら、話して下さったそうです。
「ご院さん。お寺の法座で、凡夫の私を阿弥陀様だけは、お見捨てでないと聞かせて下さいましたでしょう。
そう聞かせていただきましてから、この足袋を捨てても、誰からも文句は言われませんが、この私の足を、暑い時も寒い時も、石ころ道からも泥んこ道からも、常に守って下さった足袋ですから、ポイと捨てるのは何か申し訳なくて、一針ひとはり繕っては、ありがとうございましたと御礼を申してから、捨てさせてもらおうかと思っております。」
と、そのように申されている口から、お念仏が、ひと声、ふた声、ナンマンダブツ、ナンマンダブツと、こぼれ出ておりました。
このようにお話しを聞かせていただき、大変に感動をしたことを覚えております。この繕いものをしておられた方は、決して足袋を単なるモノとして見ておられたのではなく、私を守り続けて下さっている如来様が、タビという姿をとって守って下さってありましたと、合掌なさっているのではないでしょうか。
いのちを大切に!とは口にしておきながら、ついつい「モノ」として見、粗末に扱ってしまっている私。本当におはずかしい次第であります。
「イモを食べた。おイモさんの一生をいただいた」と、詩に書いた子に、ハッとさせられ、教えられたことがあります。
近頃耳にしなくなった言葉に、「もったいない」というのがあります。
もったいないのは、物が惜しいのでも、それを買ったお金が惜しい、もったいないのではありません。モノとしか見ることができず、“いのち”を粗末に扱ってしまっている私。この私が、申し訳ないことをしました、とお詫びする言葉が、「もったいない」のひと言なのであります。
何一つとして、ひと様のお世話にならずして、手にし、口にしたものはありません。この“いのち”へのめざめ、それが「もったいない」とういう慚愧であり、感謝の心が、「南無阿弥陀仏」であります。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より
親鸞聖人は、よく阿弥陀様の「すくい」のはたらきを船にたとえられます。
私の煩悩を海にたとえられまして、煩悩の海を渡し、さとりの世界へ入らしめさせるはたらきを船としておられるのです。
煩悩とは、物事をありのままに見ることができず、自分の都合でしか見ることのできない心(愚痴)。少し思いがかなうと、満足することを知らずさらに欲を生む心(貪欲)。思い通りにならないと、腹を立て、うらみ、つらみを生む心(瞋恚)。の3つに代表されますが、これらが決してとどまることなく、次から次へと荒れ狂っているのです。
心という言葉の語源は、コロコロだと聞きました。コロコロはボールの動いている状態で、あれもこれもと、常に動くことを表現しており、これの縮まったのがココロだと聞き、納得させられたものです。
なぜ船にたとえるのかと言いますと、私は自力無効、つまり、船に乗せられたならば、私が寝てようが立っていようが、じっとしていようが走っていようが、私の働きは船の進行に何の関係もない。何の役にも立たないと味わっております。役に立たないどころか、動くほど、船のはたらきのジャマをしているのです。
そして、「目的があるから航海、なければ漂流」と言われますように、ただ水面に浮いているだけでは、船のはたらきをまっとうしたことにはなりません。目的の港に間違いなく運びとどけてこそ、船の役目を果たしたといえるのです。
南無阿弥陀仏の六字名号は、この私を仏にするための手立てが、すべてまどかに出来上がっており、何一つとして碍りになるものがない、大きなはたらき、すぐれた徳でありますから、私の方は、煩悩を持ったまま、このままですくわれて往くのであります。
6代目笑福亭松鶴師匠の辞世が、
煩悩を 我もふりわけ 西の旅
であったとお伺いしましたが、まさにこの六字名号のはたらきを言いあらわしておられます。
私の方では、煩悩をふり分け荷物にしてかついでいるまんまであるが、お浄土へ帰らさせていただきますと、詠まれているのであります。
自分で選んだわけではないけれども、気付いたときには、すでに南無阿弥陀仏のすくいの船の中にあったのが、この私であります。この身を、大功に喜ばさせていただきたいものであります。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より
もう30年近くも前のことですが、私には決して忘れることのできない、大切な出遇いがあります。あるお寺へお伺いし、ご住職に聞き取り調査をさせていただきました。調査も終わりお礼を述べて帰ろうとすると、「まあお茶でも」ということで、いただきながら、世間話をしておりました。
「ところで、あんた。門徒さんの家へ、お参りに行くことはあるか」
「はい。ときどき」
「お経は、何をおつとめしているんや」
「急ぐ時には偈文、時間に余裕があれば正信偈・・・・・・。でも、一番多いのは阿弥陀経でしょうか・・・・・・」
というやりとりをしておりましたところ、
「おい。あのお経は、本当に『阿弥陀経』か・・・・・・」
「はい。『阿弥陀経』です」
「本当か」
何度も念を押され、少々腹が立ってきましたので、
「違うんですか」
「私は、何回読んでも、『仏説ナミダ経』や」
「はあー」
「人間、生きているということは、必ず人知れず流してくる涙がある。人生、長ければ長いほど、人知れず流した涙の量も多いということだ。私が今日までの人生で、人知れず流した涙が、一体どれほどあったであろうか。その私の流した涙の、何倍もの涙を流しながら、私を抱きしめて、共に泣いて下さってあるお方を、阿弥陀如来と申し上げる。その阿弥陀様のお心を、説きあかして下さってあるお経だから、私には『仏説ナミダ経』としか読めないんだよ。」
60歳前後と見えるご住職が、背筋をピッと伸ばし、本当に嬉しそうに、合掌しながらお話し下さるのでした。『仏説ナミダ経』その通りであります。私の悲しみ、苦しみを、他人事にしておくことができなくて、いつも私のところへはたらいて下さっているのであります。ここに、もう解決できているよ、と喚びかけて下さっているのであります。
笑顔で合掌しておろれたご住職の姿と共に、忘れることのできない言葉であります。如来様にいただかれてある喜び、大切にしたいものです。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より
私は最近、講義や試験の担当を受け持つことがあります。試験問題を作り、○×をつけたり、レポートや提出原稿のチェック、面接・・・・・・というように消化しながら、ついさき頃気付いたことがあります。
それは、いつでも良いところを見出して、点数を積みかさねて合格点に達せさせようというのではなく、マイナス面ばかりを見つけ、減点をしている自分に気が付いたのです。
よく考えてみますと、試験を担当する以前より、私の目は、まわりの人の欠点、アラ探しばかりをしていたような気がします。彼には、こういう欠点もあるが、こういう長所があり・・・・・・と見るのではなく、良い人ではあるが、これとこれは欠点だから・・・・・・と減点法で、自分の都合よく評価をしている私がいるのです。
こんな私のありように気付きますとき、阿弥陀如来様のおすくいを、「弘誓」というお言葉でお示しを下さってあることに、有り難さと同時に、驚きを感ぜずにはおれません。弘誓の弘は、ひろい。つまり、無条件ということです。条件が多いほどせまいということですし、~より比べてひろいではなく、「ひろい」とお示しをいただいているということは、何の条件もつけない、「そのまま」すくうと誓って下さってあるのです。
人間の世界では、入学試験にせよ、入社試験にせよ、採用する側が、自分にとって都合のいい条件をさまざまにつけ、合格・不合格がいかに合理的であるかを、アピールするのですが、いずれにせよ、無条件というわけにはいきません。
阿弥陀様は、なぜ無条件のすくいを誓われたのでありましょうか。答えは明白です。自分中心にしか生きていない、自分さえよければ・・・・・・という生き方をし、言い訳さえできれば、誰に対しても恥じる心を持たないこの私、いや、「これが人間というものだ」などと、悪い意味で開き直っているようなこの私に、一つでも条件をつけられたらどうでしょう。まっ先にもれてしまうのが、この私なのです。
どんな条件であっても、いつでももれてしまう私。この私を捨てることができずに、無条件のすくいを、「南無阿弥陀仏」と完成して下さり、そのままで、すべて引き受けたから、安心してまかせよと喚びかけて下さっているのです。
子の罪を 親こそ憎め 憎めども
捨てぬは親の なさけなりけり
先生より教えていただいた歌ですが、よく味わってください。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より
お経には「一切衆生 悉有仏性」というお示しがあります。これはすべてのいのちあるものは、みな仏になる可能性を持って、生まれてきているという教えであります。
また、阿弥陀如来様は、「十方衆生」を必ずすくうと誓い、はたらいて下さっております。
十方というのは、東・西・南・北・北東・北西・南東・南西の八つに、上下を加えたすべての世界です。この十方のいのちあるものを、必ず仏にすることができなかったならば、阿弥陀如来とは名告らないと、誓い、はたらいて下さっているのです。
ですから、私たちは気付いていなくとも、どんな生き方をしていても、すべて仏となるべき“いのち”を生きているのであり、願われて生きているのです。換言するなら、私たちは、阿弥陀如来様にすくわれるべき“いのち”を、生きているということができるのです。
人間に生まれさせていただいた尊さに目覚めるというのは、このように仏となるべきいのちを生きているということへの、目ざめ、気付きなのであります。
大切なことは、この私の“いのち”が願われているだけではなく、すべての“いのち”が、阿弥陀如来様にすくわれるべく、今生きているのです。
ややもすれば、日常の生活の中で、ともすれば“いのち”の尊さ、如来様のはたらいて下さってある“いのち”であったということを忘れてしまい、どんなにか“いのち”を粗末に扱っていないでしょうか。
私が尊い“いのち”、如来様のはたらいて下さってある“いのち”を生かされていることに気付く時、初めて、すべての“いのち”が等しく、尊いと気付かされるのであります。
同じ阿弥陀如来様が、はたらいて下さってある尊い“いのち”でありました。同じ阿弥陀如来様のお浄土で遇わさせていただく“いのち”でありましたと目覚める、すべての“いのち”への共感もめばえ、「たがいに敬い、たすけ合う」という人間関係が成立し、南無阿弥陀仏にいかされる私の人生が展開していきます。
南無阿弥陀仏のみ光りは、ときもところもこえ、人種や、肌の色の違いや、家柄・・・・・・、そんなもの、何の関係もなく、等しく“いのち”を育てて下さってあるのです。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より
最近披露宴で「法話」や「挨拶」をさせていただくことが、増えてきました。ここ数年少々は変わりますが、基本的には同じ話をさせていただくことに決めております。
親は子を選ぶことができず、子も親を選ぶことはできません。きょうだいもしかりであります。家族という人間関係において、選び選ばれてできたのは、夫婦という人間関係だけであります。
地球上に約58億の人間がいるとして、その半分が男で、半分が女と単純に考えてみますと、この夫婦は、お互いに29億の中から選び、選ばれたのであります。結果的には、そういうことでありますので、夫婦とは29億分の1より選んだという、実にまれな、まさに偶然の出遇いであります。
このように、出遇いはまさに偶然でありますが、悲しいことに別れは必然であります。さまざまな別れがありましょうが、私の死ということによって、否応なしに、すべてと別れねばならないのです。
「必ず別れなければならないのですが、その別れの時に、あなたに遇えてよかった。あなたのおかげでいい人生でありました。有り難うございました。この度はお別れしますが、またお遇いしましょう。」と別れることのできるお二人に育ってください。と、私はこのように話させていただくのです。せっかくの出遇いを無駄にしていただきたくないのです。決して、この世のご縁だけで終わるのではなく、またお遇いしましょうと別れる。つまり同じお念仏の中で、共に生活をしていただきたいと願っているのです。
『仏説阿弥陀経』に、「倶会一処」とお示しをいただいておりますが、倶はともに、会はあう、一処はひとつところでありますから、ともに1つところで会う。これがお浄土であるとお示し下さっているのであります。
同じ阿弥陀如来様に育てられている仲間、同じ南無阿弥陀仏のはたらきによって育てられ、南無阿弥陀仏のはたらきによって帰らさせていただく世界でありますから、同じところへ往くのであります。ですから「倶会一処」であって、自分で行くなら、行く先はバラバラになってしまうのです。
決して「さよなら」と別れて終わりになってしまうのではなく、またお遇いしましょうと別れることのできる場が開かれてあります。ここにこそ、本当に遇えてよかったという、慶びを分かち合うことのできる人生が開かれるのです。
『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より


