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忙しく

忙しいので 勉強ができない
忙しいので 手紙が書けない
忙しいので 掃除ができない
なるほど それじゃ多分
忙しいので 死ねないだろう
『日々の糧』

 私たちが、日頃何気なくよく口にする言葉の一つに、この「忙しい」というのがあります。大抵の場合、この「忙しいので・・・・・・」というのは、自分が何かしなければならなかったことをしなかったり、手抜きをしたときの言い訳のようではありますが・・・・・・。

 ところで、この「忙しい」という字は、まさに文字の通りで、「心を亡ぼす」ということでありまして、次から次えと、目先のことにふりまわされ、追いまくられて、自分自身を見失ってしまっている状態を表しております。

 ですから、ひたすら忙しい忙しいと追われて、目先のことを消化することにのみ目を奪われ、心を奪われてしまい、ただいたずらに時間を消費し、歳月を送ってしまいますと、ふっと自分のありようが気になったとき、むなしいだけの足跡しか残っていないのではないでしょうか。

 「私の人生とは、一体なんだったんだろう。生まれて、ただ時間に追われてひたすら働き、食べて、寝て・・・・・・。これではたして“人間”と言えるであろうか。動物と一体、どこに違いがあるのだろう・・・・・・」

 こんな答えを出さねばならない人生では、私はあまりにも悲しすぎると思えてならないのです。

 私のこの人生、かけがえのないいのち、とは言いながら、一体どちらを向いて、何を求めて生きているのか。その目的のためには、今、何をしなければならないのか。これらをはっきりしておきたいのです。換言するなら、なぜ忙しいのか、その理由を納得しておきたいのです。

 やり直しのきかない、二度とないこの人生。間違えた、ではすみませんし、あれも、これも駄目だった、では悲しすぎるのです。間違いのない如来さまの智慧に遇わせていただき、一日一日を本当に有意義にしたいものです。

 すべてが移り変わる中にあって、かわることのない阿弥陀如来様のまこと、南無阿弥陀仏の智慧に導かれ、たった一度のこの人生、「忙しいので・・・・・・」と言い訳をすることのないように、大切にしたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 「若きは老いたるを送り、盛んなる者のおとろえを葬うのは、道理なるに似たれども、世は必ずしも然るべきにあらず。」

 「無常」つまり、すべてのものは常に移り変わっており、ひとときとして同じ状態が続いたりはしない。若い者が年配者の、元気な者がおとろえている人のおとむらい(葬式)をするのが当然のように思っていても、それさえ思い通りにはならないものであるということを教えて下さってあるお言葉です。

 私の知り合いに、小学生で脳腫瘍や心臓病で子どもを亡くされた方、小児ガンで治療法も充分にわからず・・・・・・というお方があります。

 お話しをお伺いするほどに、かける言葉すらなくなってしまい、自分の非力さ、無能さを、思い知らされることがたびたびあります。

 お釈迦様の遺言が、「諸行は無常である。怠りなく励めよ」であると教えていただきましたが、それこそ、この人生、いつ、何があっても何の不思議もないのですから、いのちを大切にするということは、一日一日を本当に大切にし、今なすべきことを、今自分にできることを、自分なりに、精一杯させていただくことの大切さを、お示しいただいたお言葉であると味わっております。

 誰に代わってもらうこともできず、いつ何がこの身におこるかわからない・・・・・・。こんな不安の中では、全力を出し切る生き方など、望めるはずもありません。

 誰に代わってもらうこともできないこの人生を、共に生きて下さる如来様がましますのです。いつ、何がおこってもおかしくない人生ですから、あなたが忘れていても、私は決して忘れたり、見捨てたりはしないと、誓い、はたらいて下さっている如来様がましますのです。

 私の人生の根底から、この“いのち”のすべてをささえ、どんなことがあっても、決してあなたを見捨てることはない、あなた自身弱い存在なのだから、あてにせよ、頼りにせよ、よりかかれ、あなたの人生の、つえとも柱ともなろう、あなたの“いのち”をいかし切ることができなければ、阿弥陀とは名告らぬ、と常にはたらいて下さっているのが「南無阿弥陀仏」であります。

 安心の場があってこそ、今とここを本当に活用でき、精一杯生きることができます。そのままで引き受けた、安心せよの喚び声、大切に聞かさせていただきたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 浄土真宗における、基本的な人間関係に関する姿勢は、自利利他円満ということでありましょう。

 自利というのは、自分がさとりを開いて仏になるということであり、利他とは他をさとりに到らしめる。つまり、すくうということで、それらが別々のものではなく、自らのさとりが、そのまま他のいのちのすくいであり、それがまどかに(欠けるところなく)できあがっているということであります。

 要するに「南無阿弥陀仏」のことでありまして、今、私がお念仏を聞かせていただくことができるようになったのは、どれほどの方がたのお育てのおかげであるかということに気付き、私一人のすくわれて往くことを喜ぶという、自分のカラにとじこもるのではなく、みんなが本当に喜べる生活こそが、私も本当の喜びの生活であるという、我・人ともにという生活のありように気付かせていただくことが大切であります。

 灰谷健次郎さんの、『ひとりぼっちの動物園』という本の中に、次のような詩が載せられています。

 あなたの知らないところに いろいろな人生がある
 あなたの人生が かげがえのないように
 あなたの知らない人生も またかけがえがない
 人を愛するということは 知らない人生を知るということだ

 誰でも自分の人生は、何よりも大切でかけがえがない、とは言いますが、同じかけがえのない“いのち”を、私だけではなく、みんなそれぞれに生きているのです。

 お念仏の内で生まれ、育てられて、お念仏にささえられて生きる人びとを、親鸞聖人は「御同朋・御同行」と、手を合わせていかれました。

 人に手を合わされたのではなく、すべての“いのち”に、ひとしくはたらいて下さってある「南無阿弥陀仏」に手を合わされたのであります。

 ややもしますと、自分さえよければ・・・・・・と、自分のカラにとじこもり、自分のことだけを思う、一人ぼっちの淋しい人生を歩みそうになりますが、共にお念仏の大道を歩ませていただける喜びを、一人でも多くの人と、分かち合いたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 自分のことぐらいは自分でする。誰の世話にもならん。こんな偉そうな口はきくものではない。いくらガンバッテみても、自分ではできないことがいくらでもある。そのひとつが棺おけのフタをすることである。

 浄土真宗の教えというのは、いつでも阿弥陀様が先手で、そのままのすくいであるから、もう遅いは、棺おけのフタをされてからでいいので、そこへ行くまでは、いつでも間に合ってよかったと言うことだ。

 私の恩師が、よく口にしておられたお言葉ですが、阿弥陀様のお慈悲のはたらきを、よく表して下さってあり、味わい深いお言葉であります。

 阿弥陀さまのすくいは、いつでも先手の法であります。私が気付く前に、祈ったり、願ったりする前に、私を見抜いた上で先にはたらいて下さっているのです。しかも、何一つとして条件をつけることなく、まったく無条件のすくいが、いつでもこの私のところへはたらいて下さっているのです。

 ヨチヨチ歩きの子が、階段のところにいるのを見たならば、あなたはどうなさいますか。私は「落ちなきゃいいが、危ないな」と思いつつ、多分見ているでしょうし、時には子どもの所へ行くかも知れません。

 階段の所にいるヨチヨチ歩きの子を、親が見たならどうでしょう。「危ない!」と言うより先に、子どもの所へ走り出しているのではないでしょうか。子どもが助けを呼んだり、危ないと気付く前に子どもの所へかけより、子どもを抱きしめながら、「危ない思い、怖い思いをさせてごめんね」と、語りかけているのが、親ではないでしょうか。

 私のありよう、現在地を見抜かれた如来様は、じっとしておれなくて、先にはたらきだされたのであります。気付きもせずに、悠然と眼前の楽しみを追う私を、そのまんま抱きしめ、ここに阿弥陀がいるから、安心せよと喚びかけて下さっているのであります。

 ひとつでも条件をつけられたならば、真っ先にもれてしまうのが、この私でありますから、「もう遅い」は成り立ってしまいます。

 この私をもれさせたならば、決して阿弥陀とは名告らないと誓って、成就してくださったのが、「南無阿弥陀仏」でありますから、お念仏を聞かせていただきますとき、いつでも間に合ってよかったという喜びがあります。

 間に合ってよかった南無阿弥陀仏。有り難うございます。大切にしたいものであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 だいぶ前のことですが、寺へ帰りますと人だかりができており、「なにか・・・・・・」とのぞくと、自動車が玄関前の鉄柱にぶつかっております。

 事情を聞きますと、交差点で出会い頭の衝突事故を起こし、その衝突の勢いで1台の車が、寺へ突っ込んだということで、よく見ますと、厚さ、1.5センチあります鉄柱が折れ、車は大破しておりまして、いまさらながら衝撃の強さに驚かされたのですが、ケガ人のなかったことが、幸いでありました。

 人混みの中で、私の姿を見つけ、「大変でしたね。びっくりなさったでしょう」と、声をかけて下さる方があり、「ご心配いただきまして有り難うございます」などと、あいさつを交わしていたのですが、しばらくして振り返りますと、私に大変ですねと声をかけて下さった方が、ご自分の奥さんに、「だけど、うちやのうてよかったな」と、おっしゃったのが耳に入りました。

 この人を責めようとは思いません。私たちの本当の相を見せて下さったのです。古来より「隣に蔵が建ちゃ、うちは腹が立つ」と、言い表わされておりますように、自分中心で、自分さえ良ければそれで良いというのが、私の本性でありまして、本当に共に喜び、共に泣くということのできにくいのが、この私であります。

 このような私のありようを、最も悲しまれたのが、阿弥陀如来様であります。「私が親である」という名告りこそ、「南無阿弥陀仏」であります。

 あなたは気付かずに、他人だと思い、他人事と笑っているけれども、あなたと同じ、この阿弥陀の“いのち”を分け合った、同じ「仏の子ども」なんですよ。仏になるべき身として“いのち”をいただき、今、仏になるべき身として育てられつつある“いのち”なのであって、決して他人ではなく、同じきょうだい、仲間なんですよ、早く目覚めて下さい「南無阿弥陀仏」と、はたらいて下さっているのです。

 同じお念仏を喜んでおられる人びとを、親鸞聖人が、「御同朋・御同行」、つまり同じ阿弥陀様を親と仰ぐきょうだいで、同じお浄土への道を共に歩む仲間でありましたと、手を合わせていたかれた生き方を、共どもに学ばせていただきたいものであります。

 「み仏の 光の内に 我を生みし 我がたらちねは 尊とかりけり」と詠まれたお方がありますが、すでに「南無阿弥陀仏」のはたらきの内にある私に、気付かせていただきたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

  よべばよぶ よばねばよばん 山彦の
  こたうる声は よぶひとの声

 真宗大谷派の林暁宇という先生の書かれました本に出ていた、大変考えさせられた一首です。

 こちらから大声で呼びかけて、山や谷にひびいてこだまが返ってくるように、この私の口に、南無阿弥陀仏とお称名として、出て下さっているということは、阿弥陀如来様が、南無阿弥陀仏の名号となって、先に私のところへはたらきかけて下さってあればこそ、この私の口からお念仏が出て下さっているという味わいでありましょう。

 南無阿弥陀仏の雨ダレが、石である私にいたりとどいて、南無阿弥陀仏というハネがあがると、聞かせていただきました。もちろん、雨ダレが名号で、いたりとどいたところが信心で、ハネが称名ということであります。

 私はこのことを本当に教えていただきましたのは、母を通してでありました。

 母は88歳でお浄土へ帰らせていただきましたが、晩年痴呆症が進みまして、家族の識別もまったくできなくなり、家族で世話がしきれなくなって、病院のお世話になりました。

 痴呆症の人ばかりの病棟ですので、見舞いにいき、間が持たなくなると、よく病室でおつとめをしました。

 ある時、『正信偈』を一緒に唱和しておりました。子や孫の顔もわからなくても、「帰命無量寿如来」とだしますと「南無不可思議光・・・・・・」と声を出すのです。

 途中で私たちは声をおとし、とうとう黙ってしまったのですが、一人でずっとお正信偈さまをあげているのです。詰まった時に、次の言葉さえ出してやれば、また1人で続くのです。

 この時に、『仏説阿弥陀経』の「今現在説法」のお示しを、身をもって知らせていただいたことであります。お浄土では、阿弥陀如来様が、今まさに、この私のためにお法をお説き下さってあるということでありますが、経文の通り、私の眼前に実現して下さっているのであります。

 如来様が、南無阿弥陀仏とお法をお説き下さってあればこそ、息子の顔さえわからない母の口を通して、「汝こそ我が一子地なり」と如来様の喚び声がひびいて下さっているのでありました。

 私の方が忘れておりましても、忘れて下さらん如来様がましましたのであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 阿弥陀如来様のすくいのはたらきを、「摂取不捨」という言葉であらわします。

 摂取とは、どれほどにげようとしても、決してにがすことのないはたらきです。

 不捨とは、一度つかまえたならば、二度と、はなすことはないというはたらきです。

 ですから、阿弥陀如来様のはたらきが、摂取不捨であるということは、どんなことがあっても、決してあなたを見捨てることはないから安心せよ。もし、一人ぼっちにするようなことがあるなら、阿弥陀とは名告らないとおっしゃったのであります。

 ところで、「不捨」つまり捨てないということは、如来様のお心にそむいて、自分中心にしか生きることのできないこの私を、如来様は、許して下さったということですね、と私におっしゃった方がありましたので、私は、「違います。不捨、捨てないと言うことは、むしろ不許、許せないということです」と言い、次のような話をしました。

 月忌参りに行き、おつとめがすみ、お茶が出ました。お茶うけにチョコレートが出ています。いつもはすぐにそばへ来る幼稚園へ通う女の子が、今日は、敷居際で、じっとチョコレートをにらんでいます。

 電話が鳴り、お母さんが立って行きましたので、「いいよ」と言うと、ニッコリ笑って女の子はチョコレートを口に入れました。そこへお母さんが戻ってきました。血相を変えて怒るお母さん。目に涙を一杯溜めながら泣き声を出さず、じっと私をにらむ女の子。

 私は、子どもだから仕方がない。許してやってと、お母さんに謝りました。

 私は、「子どもだから仕方ない」と許せるのです。なぜでしょう。極論すれば、わが子ではないから許せるのです。責任を持つ必要がないから許せるのです。

 親は、許せないから育てるのです。しつけとはしつつづけること、と教えていただきました。

 決して許すことができないから、いつも、南無阿弥陀仏と、私にはたらいて下さっているのです。

 自分中心にしか生きようとしない私。阿弥陀様は、そんな私を決して好きなわけではありませんが、阿弥陀と名告ったかぎり、親であると名告った限り、決して見捨てることがないと、はたらいて下さっております。

 決して見捨てることなく、育てて下さってある喜びを、大切にしたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

 「平和って何ですか」と問うと、「戦争のないこと」と言う以外に答えが返ってこずに驚いたことがあります。本来平和とは、すべての“いのち”が等しく尊ばれ、一切の差別も区別もないことであり、戦争は差別の最たるもので、戦争がないのは平和のための条件ではあっても、戦争がないからイコール平和ということにはなりません。

 ところで、念仏者としての平和運動というのは、私は反戦ではなく、非戦または不戦ということであろうと思います。反戦という形の方が見えやすく、行動的なように思えますが、『仏説瑠璃王経』の「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」とのお示しより伺いますならば、争いに反対するための争い、大を生かすために小を殺すというようなことがあっては、ならないのです。いかなる理由があろうとも、人が人を殺すという、自らの利益のために、他を害するということが、あってはならないのです。

 ルリ王によって、自らの母国であった舎衛城が攻め滅ぼされ、釈迦族の滅亡を眼のあたりにされたお釈迦様は、悲しみの中より立ち上がられ、「阿難よ、私はまた旅にでよう……人びとがこのようなありさまであるからこそ、私は救いの道を説かねばならぬ」とおっしゃり、お説法の旅を続けられます。

 このお釈迦様のお言葉に、私たちの行動の原理があろうかと思われます。つまり、殺す者も殺される者も、共に悲しい存在であり、共に救われねばならない存在であるということであります。

 親鸞聖人は『歎異抄』に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と教えて下さっております。私たちは、その時その時の縁によっては、本当にどのような行動もする可能性を持っております。

 そのような私が、どう平和運動にかかわるのかと、反問する時、私の視点の善悪ではなく、如来・聖人の仰せに、私の行動の規範を求めることの大切さに気付かされます。

 時間がかかり、まどろっこしいかも知れませんが、一人ひとりが同じ尊さ、同じ阿弥陀如来様のはたらいて下さっている“いのち”、御同朋でありました。同じ如来様を親と仰ぐきょうだいでありましたという、めざめの輪を拡げていくことではなかろうかと思います。

 阿弥陀如来様を親と仰ぎ、同じ如来様のはたらきによって、同じ如来様のお浄土へ帰らせていただける、この身の喜びの輪を、一人でも多くの人に伝えることができれば……と思うことであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

【御隠居】「いよいよ、終わりの方になってきたな。ここからは、流通分ていうて、今までお釈迦さんが説いてくれはった、お念仏でお浄土に生まれていく道をみんなに勧められるところなんや。」

【熊】  「どんな風に勧めてくれたはるんでっか。」

【御隠居】「ここでお釈迦さんは、舎利弗に最後の問いを言われるんや。やっぱり、『於如意云何』と、舎利弗おまえはどう思うと尋ねたはるんや。」

【熊】  「それで、舎利弗はんは、ただ黙って聞くばかりでしてんな。」

【御隠居】「そいうことやな。お釈迦さんが、どうしても説いておきたいと思わはったとこやから、ただただ聞くばかりやったんや。」

【熊】  「それでその話の内容はどんなんでっか。」

【御隠居】「このお経を、なんで一切諸仏に護念せらるる経と名付けたわかるかと尋ねはったんや。」

【熊】  「護念ってなんでっか。」

【御隠居】「護念ゆうたらな、ひらとういうたら、護られてるということなんや。」

【熊】  「何が何に護られまんねん。もうちょっと丁寧にゆうたりなはれ。」

【御隠居】「何偉そうにゆうてんねんな。これはな、ひたすら名号を聞き、お念仏する人は、一切の仏さまがたが、護ってくれはるから、一切諸仏に護念せらるる経と名付けるんやと言うたはるんや。」

【熊】  「それで、護念て、どういうことなんでっか。」

【御隠居】「何を聞いてるんや。せやからな、念仏する人を、諸仏がつきっきりで、念じ護られることなんや。それでな、念仏申す人生を送る人は、どんなことがあっても、必ずお浄土へ迎え取られていくことになるんや。」

【熊】  「あっ、摂取不捨ということでんな。」

【御隠居】「ああ、ようわかってるやないか。そのとおりや。阿弥陀さまのお救いに摂め取られたら、どんなことがあっても捨てられることがないんや。」

【熊】  「阿弥陀さまが、わてらにはたらきかけ、お浄土に生まれたいと願わして、その願いを持つものを必ずお浄土へ迎え取られるのでっから、これほど、簡単な教えはありまへんな。」

【御隠居】「ところがどっこい、そうはうまいこと、いかんようになってるんやな。ここに、『難信之法』てあるやろ。」

【熊】  「ああ、ありまんな。これがどうしたんでっか。」

【御隠居】「難信の難は、むつかしいということやろ。けどな、ここでは、単純にむつかしいとゆうたはるんとちゃうんや。自力の事をゆうたはるんやで。自力のはからいがある限り、このお念仏の教えというのは、難信なんや。けどな、その自力のはからいを取ってくれはるのが、阿弥陀さまのはたらきなんや。」

【熊】  「阿弥陀さまのお働きを、この身一杯に受けているんでんなあ。そやなかったら、お念仏なんかするような人間やなかったですわ。」

【御隠居】「ほんまにそやなあ。」

『聞法(1995(平成7)年9月1日発行)』(著者:義本弘導)より

【熊】  「このへんは、ぎょうさん仏さんの名前が出てきまんな。」

【御隠居】「そうや。ここは六方段ていうて、六方の仏さんが、他力のお念仏こそが、阿弥陀さまのお浄土に生まれていく道であるということを証明し、讃めたたえられてるんや。」

【熊】  「六方て何ですんや。」

【御隠居】「六方いうたら、方角のことや。ほれここに、東方、南方、西方、北方、下方、上方とあるやろ。」

【熊】  「はあ、確かにありまんな。そんなら、東方と、南方のあいだはないんでっか。」

【御隠居】「また、ややこしいことをいうやろ。これはな、そのあいだがないんやのうて、全部の方角を代表して、六方を出されてるんや。そんなことより、ここでは大事なことが説かれたるんやで。」

【熊】  「今まで聞かせてもろたとこも、相当大事なことやと思てましたけど、ここはよっぽど大事なんでんな。」

【御隠居】「そうやで。ここがなかったら、阿弥陀さまのご苦労も水の泡になってしまうんや。」

【熊】  「そら、大変なことでんな。それで、どういうことが説かれてるんでっか。」

【御隠居】「熊はんは、あそこの角のうどん屋どう思う。」

【熊】  「なんですねん、藪から棒に。」

【御隠居】「つべこべ言わんと、どう思てるか言うてみ。」

【熊】  「そりゃ、あそこのうどん屋、うまいでっせ。また、あのおやじが愛想がようて、食べてて気持ちよろしいわ。けど、こんなことが何の関係がおまんねん。」

【御隠居】「ほんなら、なんであのうどん屋がうまいてわかったんや。」

【熊】  「そら、あの店ができて、しばらくしたら近所でえらい評判になってたもんやから、一遍行ってみよ思て、行ったらうまかったんですわ。」

【御隠居】「そうやな、近所で評判になっとたからな。その近所というのが、阿弥陀さまにとっては、六方の仏さんということなんや。。」

【熊】  「あっ、そうか。阿弥陀さまのことが、近所の仏さんの間で評判になったんやな。」

【御隠居】「そういうことや。それでな、どういうふうに評判になったかというたらな。仏さんという方は、みな舌が広いそうでな、自分の事について本当の事を言う時には、顔全体を覆うぐらい広い舌を出されるそうや。」

【熊】  「なんや、ばけもんみたいでんな。」

【御隠居】「これ、またそんなことをいうやろ。それでな、その舌が、公のことで本当の事を言う時には、三千大千世界を覆うほどになるんやそうな。それで、この六方段では、阿弥陀さまの教えを信じなさいと勧められる時に、そうなったと説かれてるんや。」

【熊】  「ということは、阿弥陀さまの評判は、うそやないから、その教えを聞くようにと、ほかの仏さんがすすめてくれたはるんでな。」

【御隠居】「そういうことやな。」

『聞法(1995(平成7)年9月1日発行)』(著者:義本弘導)より

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