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因幡の源左さん

 昭和のはじめに因幡の源左という念仏者がおりました。因幡とは、現在の鳥取県にあたります。

 連日の雨に村人達は、空を恨めしそうにながめていました。
「なんといういまいましい雨だ」「これじゃあ畑仕事もできん」村人達は、口々に愚痴をいいます。

 そこへかさもつけずにずぶぬれになった源左さんが通りかかりました。この雨にさぞかし困った顔をしているかと思いきや、なんだかうれしそうです。不審に思ってたずねてみると、「この雨ではじめて気づいたが、鼻が下向いててよかったなあ」と、答えたそうです。もし鼻が上むいてついていたら、雨が鼻に入ってたいへんです。

 またある時、家で縄を編んでいたときのこと、ふと手を止めてじっと手を見つめている源左さんに隣にいた奥さんが、「あんた、とげでも刺さったのかい。」とたずねると、「いいや」と、首をふって、また手を見つめています。

 しばらくしてお念仏をとなえながら、「鎌や鍬なら使えばすり減って、1回や2回は修理して使えるが、すぐにダメになる。それにひきかえ、このおらの手はなんぼ使ってもすり減るどころか、皮が厚くなって使いやすくなる。なんとありがたいことかなあ。」と、よろこんだということです。

 いわれてみれば、あたりまえのこととして気にもとめない事柄もあらためて見直してみると新たな発見につながります。

 隣が車を買い替えたのに、近所に家が建ったのに、お向かいの家の子供はどこどこの大学に受かったのに、それなのにうちは…。

 私たちの生活は、目を外にばかりむけて不満だらけの毎日です。

 今、在ることのすばらしさを忘れてしまっているような気がします。そういえば、仏さまの眼は半眼といって、半分外を見て、半分は自分自身をみつめていらっしゃいます。

 もう一度、自分自身を見直してみたいものです。

『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より

 先日の新聞に過食症に悩む女性が増えていることが掲載されてありました。

 過食症とは、拒食症と並ぶ神経性の摂食異常で、一度に大量に食べ、途中で抑制のきかなくなる症状をいいます。しかも、食べた後で太ることを嫌い、吐くか下剤を大量に使い、身体は細身に保たれているそうです。ここでは二人の例があげられておりました。

 一人は、社会的地位と名誉をもつ自立した女性にしたいという母親の願いと、自分はかわいい女になりたいという二重拘束に身動きがとれなくなった女性。

 もう一人は、仕事はバリバリこなすキャリヤウーマンだが、母親が自分の事に無関心で、母におもいっきり甘えてみたいという満たされない願いを持っている女性。

 二人とも、いったん食べ出したら歯止めがきかなくなり、ラーメン、チャーハンを食べたあと、隣の店で天丼、今度はそば屋でうどんという具合。けれども太るのを嫌い、消化される前に無理に吐き出してしまうのだそうです。

 精神科医の話しによると、「親の影響を子供が大きく受けることは確かであるけれど、恵まれた環境にいながら、本人が自分の理想とする環境とのギャップに適応できないという現代人の心の弱さが現れた結果」だそうです。

 心も体も傷ついているのに見せかけだけはスマートに保とうとする過食症の女性も、周りとの比較によってしか自分の幸せをはかれない我々も、ともに自分自身をしっかり見つめていないために病んでいるのではないでしょうか。仏教は、応病与薬の教え、つまりどうしてそうなったのか原因を考え、それによって解決の道を与える教えです。

 情報が氾濫する現代において、私達が自分自身の環境(人生)をありのままに受けとめ、他に左右される事なく、正しい宗教を求めるとき、このような現代病はなくなっていくと思います。

 今こそ、仏の教えに真剣に耳を傾ける時です。

『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より

 この頃「1対1」という態度がなくなってきたように思われます。情報の多い時代になって自分自身が失われて大勢の中に流されている時代が現代であります。

 では、「1対1」とはどういうことでありましょうか。

 例えば、20人程の方がお寺にお参りにこられて、お話を聞いて下さっているとします。お話しは、20人に向かって語られます。しかしながら、私の聞き方としては、20人の中にまぎれて聞くのではなく、私一人に向かって話しかけられているという姿勢、すなわち、仏様と私と真むかいになって聞く態度が大切なのです。仏教を聞くことは、仏様に自分自身の人生を真剣に問いかける事なのです。

 さて、近頃はお稽古ごともさかんで一人がいつくものことに挑戦しておられます。

 はじめた動機を訊ねると、みんながそうするから私も時代に遅れないようにしたいという答えがかえってきました。

 みんながそうするので私も…。なるほどそれには一理あるのですが、それでは何事も身につきません。そこには主体性がないからです。お稽古ごとでも、先生と私との真剣勝負でなくてはなりません。ここに初めて「1対1」になることができ、学ぶ姿勢と尊敬の心が生まれるのです。

 人生においていろいろの苦しみにあう時、親といえども子供といえども代わってもらえず、代わってやることも出来ません。一人で乗り越えなければならないのです。限られた人生をどう生きるのか。このことを生涯仏法に問い続け、凡夫のまま救われる道をお示し下さったのが親鸞聖人であります。

 本願力に遇いぬれば、むなしく過ぐる人ぞなき…。このご和讃は、まさしく如来様と「1対1」の生涯の中で確信されたお言葉でありました。
「如来が私のいのちになりきって救いたまう」

 今一度味わいたいものです。

『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より

 浜田廣介氏の童話に、「たったひとつの願い」というお話があります。ある街はずれにたっている古くなった街灯のお話しです。

 この街灯も、新しくたった当時は人々から暗かった道を明るく照らしてくれる街灯として喜ばれていたのでしょう。しかし、いつしか街灯は古くなり、人々は街灯があることすらも忘れ、急ぐように家路に向かいます。それでも街灯はできる限りの力をふりしぼり、道を明るく照らしていました。

 街灯は、行き交う人を見おろしながら、たった一度でいいから、自分の方を向いて、明るいなぁといってほしいという願いをもっていました。しかし、くる日もくる日も人々は街灯には気づかずに通りすぎてゆきます。ある嵐の夜、街灯は最後の力をふりしぼり、道を明るく照らしていました。そこへ子供が二人、大切な宝物の貝がらを見せあいながら、家へ帰ろうとしていました。その時、貝がらが街灯の明かりに照らし出されて、美しく輝いたのです。

 子供達は驚き、上を見上げました。
「なんて明るい街灯だろう。街灯さんありがとう」
嵐が過ぎ去った朝、街灯はついに力つきて倒れていました。でも、その明かりは星になって永遠に輝き続けています。

 現代は、新しいもの新しいものへと目をやり、古くなったもの、弱い立場のものへは目を向けなくなっているように思います。社会福祉、老人福祉などが叫ばれてはきているものの、「存在を認めてもらえないと」自殺する老人も増えているのが現実です。

 忙しく働き、新しいものを手にいれ、物質面では豊かになったものの心の豊かさを忘れてきたのではないでしょうか。

 心の豊かさは、「よろこび」の中に生まれてくるものです。

 生きているよろこび、古いものを大切にするよろこび、新しいものを得たよろこび、生かされていることに気づいたよろこび、そんなよろこびをたくさん持っている人が幸せな人なのです。

 街灯のたった一つの願いは、「よろこび」をかわしあう心を持ってほしいという願いであったのではないでしょうか。

『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より

 迷いとは、進むべき道を見失っているということです。よく電話で、「お寺へ行きたいのですが、どの道を行けばいいのですか、迷っています」と話されています。進むべき道がはっきりすれば、生きる方向が定まります。私たちの人生、どの道を歩むことが、悔いなく力強く歩める道でしょうか。仏教は、生死(迷い)をこえていく道を教えていますが、仏教の中でもさまざまな道があります。どの道が私にふさわしい道かを知るには、私の現在地を知ることが必要です。

 「進むべき道がわかりません。迷っています」という方に、私は「現在地はどこですか」を聞き返します。現在地がわかれば進むべき道を指示することができるからです。
  仏法を聞くとは、阿弥陀さまの光に照らされ私自身の姿、即ち現在地が明らかになると同時に、阿弥陀さまが、私たちの進むべき道を指示してくださっていることが明らかになるのです。

 私は安心して迷える道、安心して間違えてもいい人生の道を進みたいです。迷ったらいけない、間違ったらいけないと力んで生きる道はとてもしんどいし、疲れて長つづきしません。また自分の思い通りにならなくても悔いなく生き、私がこの人生に生まれて良かったと心から思える人生の道を歩みたいです。

 二河白道の譬に、限りなき煩悩によって苦しんでいる旅人が、前にも進むことができず、後ろにも下がることができず、またとどまることもできない状態の中で、お釈迦さまが「汝ただ決定してこの道を尋ねて行け」と示され、阿弥陀さまが「汝一心正念にして直ちに来たれ」と私たちにお浄土への道を歩みなさいとよびかけられています。このお浄土への道を歩む人は、霊やタタリの迷信に振り回されることもありませんし、いくら私が間違っても、間違うことのない阿弥陀さまが私の生きる依りどころとなってくださっているから安心です。「この道より我を生かす道なし」です。どうか皆さまと共にこのお浄土への道を歩みたいものです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 甲斐和里子さんは、「私は歳をとって外面はいよいよ不細工になってゆくけれども、内面の心根の方は老いるに従って少しずつマシになってゆくように思われます。そういうと人は苦笑されるかもしれませんが、何といわれても私は若い時より歳をとった今が少しマシになったように感じられるのです。人間が少しずつでもマシになるということはただごとではありませんが、これもひとえにお念仏のおはたらきです」とのべられていました。

 皆さんは如何でしょうか、歳をとって外面は悪くなるのは当然ですが、内面の心根の方は少しマシになったでしょうか。私も以前家内に恐る恐る聞いたことがあります。「結婚して15年以上たったが、結婚した時と今と、少しは人間がマシになったか」と。「ちっとも変わってない」と言うかと思っていたら、「少しはマシになった。ちょっとは人の気持ちがわかるようになった」と言ってくれました。

 お念仏に生きる人生、お浄土への道を歩む人生とは、日々の歩みの中で阿弥陀さまに育てられ、少しずつ見えなかったことが見え、気づかなかったことに気づかされて成長してゆくことだと思います。そしてその歩みは、いくら歳をとっても80歳になっても90歳になっても、いのちある限りいよいよ深められて、いのちを輝かして生きていくことができるのです。人生に余生ということはありません。80なら80の人生、90なら90の人生があると思います。

 ある90歳のお婆ちゃんが「み仏のこよなき愛に恋をして抱かれて生きるいのち尊し」と歌われていました。また榎本栄一さんに、「としをとることも喜びだ、今までわからなかったことが少しずつわかってくるから」という詩がありますように、与えられたいのち、いのちある限りお念仏を申しながら、輝かして歩みたいものです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 あるカレンダーに、「頭を下げながら人を見下げている。自是他非の心がぬけぬから」という言葉がありました。自是他非とは自分が是で、他人が非であり、自分が良くて他人が悪いということです。頭を下げるということと、頭が下がるということとは全く違います。頭を下げるということは、自分の都合、ハカライ(我執)なのです。本当は私の方が正しいのに仕方がないから頭を下げるとか、あの人に今度世話になるから頭を下げるとか、あの人は上司だから頭を下げておこうとか、頭を下げなかったら自分の立場を悪くするための我執にもとづいた行為なのです。そして頭を下げながら人を見下げていることもよくあります。

 しかし頭が下がるということは、私の都合、ハカライではありません。素晴らしいものに出遇って感動した時や、私を生かさせてくださるものに感謝した時、「おかげさま」と頭が下がり、また私の恥ずかしさ、愚かさに気づいた時、「おはずかしい」と頭が下がります。

 頭が下がるとは、「おかげさま」、「おはずかしい」というお念仏のはたらきなのです。「南無」と頭の下がる時、私の恥ずかしさに気づき、「阿弥陀仏」と私を支え生かさせてくださる働きにめざめた時、おかげさまと喜べます。お念仏は、私たちに温かい人間らしい心を引き戻してくださるのです。

 また「仏ニタノム」と「仏ヲタノム」ということも一字違いですが全く違います。「仏ニタノム」とは、まだ私が中心であり、私の力の足りないところを仏さまの力にタノムということです。

 しかし「仏ヲタノム」とは、自分の力では助からないことに気づき、すべて仏さまにまかすことであり、仏さまがどこまでも中心なのです。「仏ニタノム」とはまだ私が中心ですから、頭を下げても素直に頭が下がりません。しかし「仏ヲタノム」とは、阿弥陀さまに私のすべてをまかせるのですから、ただただ頭が下がるばかりなのです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 人間の知恵は頭が上がり、仏の智慧は頭が下がります。人間の知恵とは、人間の方から未知なるものを学び、覚え、理解することであり、知識、教養、学問の世界です。そして知恵がつけばつくほど偉くなり、賢くなり頭が上がってきます。

 しかし仏さまの智慧とは、仏さまの方から私を照らし、めざめさせ、心の闇を破ってくださる働きですから、仏さまの智慧に遇えば遇うほど、私の愚かさ、恥ずかしさ、罪業の深さに気づかされ、頭が下がるばかりです。

 仏法は、知識・教養・学問の世界ではありません。今まで見えなかったこと、気づかなかったことを仏さまの智慧によって、気づかされ、めざめさせてくださるのです。

 人間は知恵がつけば偉くなり、賢くなるので頭が上がり、仏法を聞く耳がなくなってきます。素直に仏さまの教えに耳が傾けられなくなります。

 しかし、「実るほど頭を垂るる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、小っぽけさに気づきとても謙虚になってきます。自分の知恵や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるばかりです。すぐに善人づらをして、善人づらしていることさえ気づきません。

 あるお寺の掲示板に、「賢くなることを教える世の中に、自分の愚かさを気づかせる教えこそ人間の道である」という言葉がありました。現代は本当に賢くなることを教え、知恵がついてきた人が増えてきて、かえって人間の心がますます荒廃してきたようです。それ故、自分の愚かさを教える仏さまの教えに、素直に耳を傾けたいものです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 ある日本人の登山家が、外国の未踏峰の山に登った時、「我自然を征服せり」と叫んだそうです。しかし一緒に登った現地のシェルパは「自然が私に登ることを許してくれた」と大地にひれ伏して感謝したそうです。「我自然を征服せり」とは驕れる日本人の姿を象徴している言葉です。いくらすぐれた登山家といえども、気象条件が悪ければ登ることはできません。登れたということは、自然が登ることを許してくれたのです。おかげさまなのです。

  ソウルオリンピックの女子百メートル金メダリスト、ジョイナー選手や、メキシコオリンピックの男子走り幅とび金メダリストのビーモン選手は優勝した時、大地にひれ伏して大地にキスをして、「こんな素晴らしい記録が生まれたのも、私を支えてくれた大地があったからだ、この大地にどのような感謝の気持ちを伝えたらよいか」と語っていました。

  残念ながらこの言葉は、現在の日本人選手にはほとんど聞かれない言葉です。

  私は日本人とアメリカ人の宗教心の違いではないかと思います。現在でもアメリカ人の40%は、毎週家族そろって教会にお参りするそうです。日本は宗教の数はとても多いのですが、多くは霊や祟りや、自分の欲や願いを叶えてもらうという宗教で、宗教に関心はあっても宗教心は失くなってきました。物質的豊かさの中でいのちを見失ない、おかげさまの心を失くしてきました。

  だいぶ前の話ですが、ある農家の方が、朝から晩まで一生懸命働き、秋の収穫を得た時、「私が働いたから」とは少しも言わず、「おかげさま」と喜んでおられました。一生懸命働いても台風や長雨にあえば収穫は得られませんし、また目に見えないいろんな働きの中で収穫を得させていただいたのです。おかげさまなのです。念仏者とは、自分のした精一杯のことを少しも自分の功績と思わず、おかげさまと喜べる人なのです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 漢字で偽(いつわり)という字は、人の為と書きます。人の為にするということは偽ということでしょう。

 よく私たちは子どもの為、家庭の為、友達の為とかいいますが、内容をみつめてみると、自分の都合が多いようです。私も子どもの為、子どもの為と言いますが、親のエゴを押しつけていることが多いようです。

 ある小学生の詩に、「お母ちゃんありがたいと思わないことはないが少し口うるさい。二言目にはお前のため、お前のためという。それは愛情の押し売りだ」とありました。私たちも自分の都合で、愛情の押し売りをしていないか問うてみなければいけません。

 以前学生が、「私の人生は保母として、子どもの為にささげます」といった時、「本当か」と問い返したことがあります。「子供の為といいながら、結婚したらすぐにやめる人は多いし、また結婚しても続けるのは、この仕事が好きだからとか、経済的理由からとか、ほとんど自分の都合なのです。子どもの為というより、自分のできる限りのことを精一杯つとめさせてもらうだけではないか。自分がつとめさせてもらったことに、子どもたちが喜び、結果的に子どもの為になってくれたらこの上ない喜びだ」と話したことです。

 人の為にと力んで行い、その心が相手に通じなかった場合、私たちはすぐに「せっかくしてやったのに」と愚痴がでます。

 そうですから、たといボランティア活動でも、苦しんでいる人の為にするのではなく、私が、私自身のつとめとして私のできる限りのことをさせていただくだけなのです。相手にお礼を言ってもらう為にするのではなく、私がさせていただくだけなのです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

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