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家庭円満の秘訣

 「相手をたしなめようとする心が家庭にひびを入れ、私が我慢しているという思いが家庭を暗くする」という言葉があります。

 私は結婚式のスピーチの時にもよく話をさせていただいているのですが、家庭円満の秘訣は、相手をたしなめようとしないことです。裁かないことです。しかし家庭の中でよく夫が妻を、妻が夫を、親が子を、子が親を裁き合って家庭にひびを入れています。

 また私が我慢しているという思いが、家庭を暗くします。言葉には出さなくても態度や表情に出てきます。私も家庭生活の中でいろいろと我慢していますが、この我慢がますますカドを増やしていっています。我慢することは、カドがとれることではなく、カドが増えることなのです。我慢とは、自分の我を一時的に押さえているだけであって、カドがなくなっているのではなく、心の中で「モヤモヤ」がふくれあがっているのです。

 ある時、私の我慢が爆発して家内に、「俺はこんなに我慢しているぞ」と言いました。すると家内は、「私だってこんなに我慢しているよ」と、3倍になって帰ってきました。お互いに我慢しながら争っているのです。私たちはすぐに、「私が我慢しているから家庭がまるく治まっている」と思いあがっています。しかし実際はそれぞれお互いに迷惑をかけ、支えられ、我慢されて生かされているのです。でも、しぶとい私たちは、理屈ではわかったつもりでもなかなか気づきませんし、気づいたとしてもすぐ忘れます。

 念仏詩人、榎本栄一さんに、「うぬぼれが木の上からポタンと落ちた。落ちたうぬぼれはいつの間にかまた木の上に登っている」という詩がありますように、どこまでも自己中心にしか生きられない私たちだからこそ、阿弥陀さまは一時も休まず「めざめよ」とはたらいてくださっているのです。

 が、やっとダメなもんやということがわかりました。ダメなもんやということがわかってはじめて聞法が地についてきました」と話されていました。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 「私は長年仏法を聞いたおかげで腹をたてなくなりました」と言われる方がありますが、はたしてそうでしょうか、仏法を聞いたからといって腹がたたなくなるのではありません。もって生まれた根性は、そう簡単に変わるものではありません。

 仏法を聞いて腹がたたなくなるのではなく、いつも自分勝手に腹をたてている自分の姿が、はっきりと知らされてくるのです。腹をたてまいと思っていても、縁によってまた腹をたてている私です。お恥ずかしいと頭が下がる人が仏法の聞こえた人です。

 以前あるお婆ちゃんが、今日はとても良い話を聞いたから、今日一日は腹をたてまいと心に誓って帰宅しました。帰ると息子が家の建て替えの話をしていたので聞いてみると、お婆ちゃんの存在を全く無視した話だったので、少し口出しをすると、息子は「この話は婆ちゃんには関係ないんだ。婆ちゃんは黙っとけ」と、全く無視されたそうです。お婆ちゃんは腹がたって腹がたって、風呂場へ行き、水道の蛇口を思いきりひねってワンワンと泣いていたそうです。

 木村無相先生の詩に、「ナニやっても、ナニいっても、ナニ思っても、みんなスカタン虚仮不実」とありますように、私たちのやることに、これは間違いない、これは真実だということはないのです。みんなスカタン虚仮不実なのです。

 仏法を聞いて、良い人間、立派な人間になろうとするのではありません。煩悩具足の凡夫である私の姿が明らかになるだけです。私の姿が見えてくると、もう阿弥陀さまにまかすしか仕様のない私が知らされるのです。

 ある奥さんは、「仏法を聞いていいものになろうと20年頑張ってきましたが、やっとダメなもんやということがわかりました。ダメなもんやということがわかってはじめて聞法が地についてきました」と話されていました。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 信心といえば一般に、私の方から仏や神を信じることだと思われていますが、私の方から信じるというのは、まだ仏や神を信じているのではなく、信じたいという願望であり期待なのです。まだ信じていないのです。

 信とは本来、私の方から信じるのではなく、信じさせてもらうものです。裏切ることのない確かのものに遇うことによって信は生まれてくるのです。

 たとえば子どもが親を信じるのではありません。親を信じない子どもはたくさんいます。子どもが親を信じるのではなく、変わることのない親の愛情が子どもを信じさせるのです。親の愛情の方が先に働いているのです。

 また学生が先生を信じるのではありません。先生を信じない学生は多いです。しかしこの先生は信じられるという先生もいます。それは学生が先生を信じたのではなく、先生の人柄や人格が学生を信じさせているのです。

 同じように私が仏さまを信じるのではありません。私の方から信じるのであれば、私の都合で信じることになるし、自己満足におち入り易いし、結果が悪ければ仏も神もあるものかとすぐに不信になります。

 そうですから、私が仏さまを信じるのではなく、決っして変わることや裏切ることなく、間違いなく私を救うという阿弥陀さまの大いなる願いが私の心に届き、疑いがなくなった時、信心が生まれるのです。そこに大きな喜びと安心が得られるのです。

 阿弥陀さまは、どこまでも自力では救われ難い私たちの正体を見抜かれ、世界中の神々や多くの仏や菩薩がたが、あなたを見捨てても、私は決っして見捨てないと南無阿弥陀仏となっていつでもどこでも働いてくださっています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 20歳の学生のレポートに「私も何度か自分自身が嫌になり、もうどうなってもいいと思ったこともありました。そしてそんなふうに思っていると、自分の悪い面ばかりしか見えなくなってしまい、自信がなくなってしまいました。けれど『私が私を見捨てても南無阿弥陀仏は私を見捨てない』という言葉を聞いて、どんなに人に裏切られ、自分自身を捨てたくなっても、私を見守って下さる阿弥陀さまがいるんだなあと感動しました。どんなに苦しい立場になっても、阿弥陀さまだけは、自分を見守って下さるということが身につけば、自分自身にも自信をもてるようになるし、頑張ろうという気になれます」とのべていました。

 また次の学生は、「私はよく自分の都合で仏さまや神さまを信じ、都合が悪くなり、願いが叶わなければ、神も仏もあるもんかと腹をたてています。結果次第でいつ不信になるかわからないような人間だから、私のそばをいつも離れず、どんなことがあっても私を見捨てないという言葉は、何ともいえないうれしさがあります。」と答えていました。

 私たちが自分を見捨て、自殺しようと思っても、一時も休まず心臓は働いているし、呼吸をつづけています。「どうかつらいだろうが、しっかり生きておくれ」と必死になって働いています。同じように阿弥陀さまは、「あなたがあなたを見捨てても、私はどんなことがあってもあなたを見捨てない」と一時も休まず働いて下さっているのです。

 その阿弥陀さまの心を、浅原才市さんは、「私しゃあなたに拝まれて、助かってくれと拝まれて、ご恩うれしや南無阿弥陀仏」と歌っています。また東井義雄先生は、「拝まれない者も拝まれて生きているのです。拝まない時も拝まれて生きているのです」と話された言葉がとても心に響いています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 『仏説無量寿経』に、「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし」という言葉があります。どういう意味かといいますと、人生の中で苦しいこと、悲しいことに出遇っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けて生きなければいけないということです。

 お釈迦さまが、「人生は苦なり」と説かれていますように、生きることは、さまざまな障害や苦難に直面し、思い通りにはいきません。苦しみは、たとえ仏や神に熱心に祈ってもなくなるものではありません。自ら引き受けなければならないのです。しかし引き受けることのできない人は、「何で私だけがこんな目にあうのか」と愚痴や腹だちの心をおこし、そこから逃れるような宗教に走り回っています。また最近では、苦しみの原因を、水子や先祖や墓や暦、方角等に責任転嫁して迷っています。「身自ら之を受け、代わる者あることなし」です。

 たとえば我が子が苦しんでいる時、親としてみるに忍びない、もし代われるものなら代わってやりたいと心から思っても、どうしようもないのです。代わることはできない。子どもに与えられた苦しみなんです。子どもがその苦しみを引き受けていくしかないのです。

 阿弥陀さまも、私たちの苦しみをご覧になって、もし代われるものなら代わってあげたいと思っても、代わることはできないのです。阿弥陀さまといえども、因果の道理を曲げることはできません。しかし苦悩の有情をどうしても救わずにおかないと誓われ、ではどうしたら救うことができるのかと長い間苦しまれ、これだったら十方衆生の人々を救うことができると阿弥陀さま自らが、南無阿弥陀仏となって、「我にまかせよ、必ず救う」とよびつづけて下さっているのです。

 ご和讃に「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情をすてずして、回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」とありますように、阿弥陀さまの大きな悲しみの心が南無阿弥陀仏という働きになったのです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 国立大学を卒業して弁護士をしておられる方が、ある日曜日、畑仕事をしていました。その時、小学校の1・2年生の子どもを連れたお母さんが畑の近くを歩きながら、子どもにこう話していたそうです。「坊や、しっかり勉強しなかったらあのオッチャンみたいになるよ」。

 大変な差別ですし、いのちを見失った言葉です。差別というのは親が子どもに教えていることが多いようです。部落差別でも、親が子に「あの家の子どもと遊んではいけない」、「あの地域に行ってはいけない」と教えています。

 とても恐ろしいことに、親自身が差別していることに少しも気づいていないのです。そして私たちも同様に、差別し人を傷つけていないでしょうか。障害者の方に対しても、知らぬ間に高い所から、「可哀想」とか、「生まれてこない方が良かったのに」と見下ろして差別していないでしょうか。

 現代の世間の価値観は、健康、財産、能力、学歴、地位等によっていのちの軽重を量っています。それ故、先程のお母さんのように、我が子に高い学歴、収入、地位を求めて、知らぬ間に多くの人を差別しているのです。

 悲しいことに私たち現代人は、この世間の価値観が骨の隋までしみこんでいますから、知らず知らず思いあがり、多くの人を差別していないでしょうか。仏法をくり返し聴聞してこの私の姿を明らかにしていかねばなりません。阿弥陀さまは、私の罪業の深さを気づかせ、いのちにめざめよとつねによびかけられています。

 石川県の松本梶丸先生は、「信仰の世界に生きるものは、あらゆる事象にふれて人間の驕り(おごり)が見えてこなければならない。みずからの罪業の深さを感じなければならない。それでなければ信仰という名の観念をもてあそび、そこに酔うているだけではないか」と教えられています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 東井義雄先生が、小学校の校長をされていた時、朝礼で、「皆さん手を内に曲げて下さい、曲がりますか、痛くないですか」と聞くと、前に立っている一年生の子が、「先生曲がります、痛くないです」と答えました。先生は「そうですね曲がりますね、では今度は逆に手を曲げて下さい、曲がりますか」と聞くと、「先生曲がりません、痛いです、手が折れちゃいます」と答えました。先生は「そうですね、曲がりませんね、痛いでしょう。昨日皆さんが雨の中帰っていく時を見ていると、カサを逆に、チューリップの花が開いているようにさし、カサが痛い痛いと叫んでいるのに、その痛みを聞いてやらない子がいたよ、聞いてやろうね。また昨日皆さんが廊下を歩いていた時、靴のカカトをふんで、靴が痛い痛いと叫んでいるの聞いてやらない子がいたよ、聞いてやろうね」と話されたそうです。

 いのちは人間だけのものではありません。あらゆる生き物にもいのちはあります。またあらゆる物にもいのちはあるのです。そのいのちを畏れ敬うことなくして教育は存在しないのです。

 ある作家の方が、フィリッピンの小島に行かれた時、現地の人から、「今日は大きなカニがとれたからごちそうします」といわれて楽しみに待っていました。しばらくしてその人がやって来て、「申し訳ありません。今日カニをごちそうしようと思っていたのですが、カニをみたら卵をかかえていたので逃がしてやりました」というのです。その言葉を聞いて自分の恥ずかしさに気づくと同時に、大変感動されたそうです。

 「卵をかかえているから海に帰すというのはその島の人にとってはごく当たり前の日常であり感情なのでしょう。私たちはそれが驚きなのです。いのちの畏敬ということからいえば日本人は徹底して堕落してしまった」また「いのちに対するこまやかな感情が芽生えてきたことを知った時、私は自分が少し深い人間になったような気がした」と述べておられました。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 現代は、いのちを見失った時代だといわれます。私たち自身、いのちを見失った生き方をしていないでしょうか。世間の価値観や、損や得、役にたつ役にたたないという見方でいのちを軽く見ていないでしょうか。

 たとえば、会社の社長が、「お前はとても大切な人間である」といった場合と、親が子に、「お前はとても大切な人間である」といった場合、同じ大切な人間であっても内容は全く違います。

 会社の社長が「大切な人間である」といったのは、会社にとって役にたつからです。利用価値があるからです。しかし病気等で、仕事ができなくなった時、役にたたなくなった時、会社からは「辞めてくれ」と言われるでしょう。それは、かけがいのない「いのち」としてみているのではないのです。取り替えがきくのです。目的を達成するための手段にすぎないのであり、道具なのです。道具は消耗品であり、古くなればゴミなのです。

 しかし親が子に「大切な人間である」と言っているのは、役にたつ役にたたないを越えて、その子のいのちをいのちとしてみているのです。どんなに出来の悪い子であっても、親にとってかけがえのない「いのち」なのです。取り替えができないのです。

 今、日本人は世間の価値観で、役にたつものを認め、役にたたないものは切り捨てていくという考えで、「いのち」を見ていることが多いような気がします。大変恐ろしいことです。老人の自殺も年々増えていますが、この「いのち」の見方が原因しているように思われます。すべてを役にたつ役にたたないという利用価値で判断してしまう習慣が身についてくると、自分自身さえもその価値基準でしか見られなくなってしまうからです。

 それ故、役にたつ役にたたないということを越えた大きな広いいのちの世界があることに気づくことが一番大切なんです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 数年前、ノーベル平和賞を授賞されたマザーテレサ女史が来日した時、記念講演で、「人間にとって最大の不幸は病気でも貧乏でもない。自分が誰からも必要とされてない、誰からも愛されていないと感じることです」と話されていました。

 私たちにとって自己の存在が認められない、必要とされないと感じることほどつらいことはないでしょう。サラリーマンが会社で、お年寄りが家庭で、子供が学校で、少しも存在が認められず、必要とされなかったら生きる意味を見失ってしまいます。

 愛の反対語は憎しみですが、現代では無関心であるといわれます。誰からも相手にされない、無視されるということは本当に辛いことでしょう。

 以前ある会社でノイローゼになり、自殺した方がいましたが、お通夜の時、精神科医の先生がみえてこんな話しをされていました。「ノイローゼの末期の患者にとって、救いは一つしかありません。それは会社の上司や同僚の人たちが、みんなあなたが来るのを待っている、あなたの力を必要としているんだと、その人の存在をそのまま温かく認めてあげる以外に救いはありません」と話されていました。

 先日ある家にお参りした時のことです。若い人だけでおいしそうなものを食べていると、お婆ちゃんが、「ただいま」と帰ってきました。するとお嫁さんが、「あ、お婆ちゃんが帰ってきた。さあかくそうかくそう」といって急いでかくしていました。とても悲しい光景でした。人間は必ず年老いていきます。そしていくら年老いても存在を否定されることほどつらいことはありません。

 以前あるお婆ちゃんが、「私の一番うれしいことは、若い人から温かい言葉、優しい言葉をかけられることです」としみじみと話されたことが忘れられません。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

 ある学生のレポートに「私の母は病気で倒れて、今は身体が不自由です。私や家の者は、その母に対していつも『頑張りや、何でも頑張ってせんとあかんやろ』と簡単に口にしています。母はいまのままで精一杯なのに、私をふくめて周りの者はそれ以上のことをして欲しいと望んで、母のことを少しも考えずに、『頑張れ』と言っています。講義で、阿弥陀さまは何の注文や条件もつけずにそのままの私たちを救うと聞きましたが、母に対して、『頑張らんでもいいよ、あなたはそのままで十分だよ』と言われることで、どれだけ救われることでしょうか」とのべていました。

 私はいつもご門徒の方に会った時、「今度何日にご法座があるから参って下さい」と言っていますが、その時にいろいろな答えが返ってきます。その中で、「私は折角いい話を聞いても、なかなか実行できないし、根性も直らないから駄目です」と平然と答えられる方がいます。

 しかし、少しぐらい話を聞いて、すぐに実行できたり、根性の直る人っているのでしょうか。そういう人は仏法聞く必要ありません。

 阿弥陀さまは、「実行せよ、根性直せば救う」と少しも仰しゃっておられません。「なかなか実行できない、根性の直らない煩悩具足の凡夫であるあなただからこそ、そのまま救う」とよびかけられているのです。

 その阿弥陀さまの願いが少しも聞こえず、自分が信心して、すぐに善いことを実行し、根性を直し、価値ある人間、立派な人間になって救われるのだと誤解しているのです。これを聞き損ないといいます。もし私たちに、「頑張って根性直したら救う」と注文がつけられたら、私たちは永遠に救われることはないでしょう。

 素直に、阿弥陀さまの願いを聞いていきましょう。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より

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