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梅雨

 6月は、日本では梅雨の季節です。毎日雨が降って、うっとおしいなと思うのですが、この雨は、いのちの誕生の雨でもあります。

 生き物にとって、水は欠かせないものです。梅雨の長雨の中で、色々ないのちが確実に育っていきます。そんな時期に歩き回ると、せっかく芽生えたいのちを知らない間に踏み殺してしまうかも知れないと考えられたのがお釈迦さまです。

 インドでは日本以上に雨の時期とそうでない時期がはっきりとしています。ですから、お釈迦さまは雨の時期に出歩かないようにされました。一ヵ所にお弟子様と一緒に集まられて、勉強会をされたのです。そうすることによって、知らない間に生き物を踏み殺して不殺生の戒律を破ることを防がれたのです。それを安居(あんご)といいます。

 現在、本願寺では7月後半に2週間、安居が開かれ、日本全国から僧侶が集まって、勉強されます。この安居にはそういう意味があったのです。
 お釈迦さまがいのちを大切にされたのはそればかりではありません。川の水を飲む時にも布でこしてから飲むようにされ、こした後の布に残っている小さな虫などは、また川に戻されたそうです。

 大無量寿経の御本願をいただきますと、「十方衆生」と如来さまが呼びかけておられます。衆生とは人間だけを指しているのではありません。生きとし生けるもの全てということです。地を這う小さな虫や空を飛ぶ蚊まで如来さまは喚びかけ、お慈悲をかけられているのです。それこそが平等にいのちを見ていくことになります。

 私たちは、自分の都合で他のいのちを見ていることが余りにも多いのではないでしょうか。小さな虫のいのちはおろか、他の人間のいのちさえも自分の都合で見ていることがあります。私の都合にあういのちは大事にし、都合にあわないいのちを遠ざけていき、愛と憎しみの生活に明け暮れています。そのような私に本当のいのちの有りようを教えて下さっているのがお念仏です。

『聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より

 親鸞聖人は、今から818年前の1173年にお生まれになっています。しかし、お生まれになった日まではわからないので、本願寺では、毎年5月21日を親鸞聖人のお誕生日として、降誕会を勤めます。

 降誕会というのは、降りるの降と誕生の誕と書きます。なぜ誕生と言わずに降誕というのでしょうか。

 誕生の誕の字を辞書で調べてみますと、うまれるという意味のほかに、いつわる・いつわりという意味があります。何か変な感じですね。人が生まれることを誕生といい、おめでたいことだというのに、そのもともとの意味がいつわりというのですから。

 ある先生にうかがいますと、
「それでいいじゃないか。うそ、いつわりだらけの世の中に生まれてくるのだから。」とおっしゃいました。

 なるほど、そういわれるとそうです。私たちはよく真実という言葉を使いますが、それらは皆、私の都合に合わせた真実です。ですから、真実がいくつもあることになります。そういう自分の都合中心で生きている私を、如来さまは、煩悩具足の凡夫と悲しまれ、真実に生きてくれよと南無阿弥陀仏と喚んで下さっているのです。そういえば、親鸞聖人は『歎異抄』に、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
とおっしゃっています。

 この世の中には、うそいつわりばかりで真実はない。ただお念仏だけが真実なんだと。しかし、親鸞聖人といえども、最初からこう言われたのではないでしょう。お念仏という阿弥陀如来さまの真実に出遇われたからこそ、こう言えたのです。

 そして、親鸞聖人は、私にお念仏こそが真実ですよと教えて下さいました。私は、親鸞聖人がおられなかったら、今生においてお念仏に出遇うことはなかったでしょう。そうすると、親鸞聖人は、阿弥陀如来さまの真実であるお念仏を伝えるために、うそいつわりのこの世界に降りてきて下さったのでしょう。だから、誕生と言わずに降誕というのです。

『聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より

 4月には灌仏会があります。灌仏会というと、耳慣れない言葉だなあと思われる方もおられるでしょうが、花まつりというと、なんだそのことかということになると思います。

  今から約2500年前の4月8日に北インドのルンビニーの花園でかわいい赤ちゃんが生まれました。その赤ちゃんがのちのお釈迦さまです。お釈迦さまの誕生のとき、様々な珍しいことが起こったそうです。花園の花は、かぐわしい香りを放ち、甘く心地よい雨が降り注いだそうです。

  そして、生まれてすぐに7歩歩んで、天と地を指差して、

  「天上天下唯我独尊」

と言われました。このお話を元にして、毎年4月には、お釈迦さまのお誕生仏に甘茶をかけたり、白い像に花御堂をつけて町の中を行進したり、各地で花まつりの行事が行われます。

  しかし、そのような行事をしていても、不思議なことに浄土真宗のお寺の本堂にはお釈迦さまのお姿が見当たりません。皆様方のお仏壇にも見当たらないと思います。

  それでは、浄土真宗では仏教を説いて下さったお釈迦さまをないがしろにしているのかというと、そうではありません。お正信偈をいただきますと、

  「如来世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」

とうたわれております。

  この如来というのは、お釈迦さまのことです。お釈迦さまがこの世にお出まし下さったのは、阿弥陀如来さまの御本願を私に知らせようとして下さったからなのです。

  それは、私からすると、なんとしてでもあなたを救うという阿弥陀如来さまが、そのことを知らさんがために、お釈迦さまになられて、御本願を説いて下さったということなのです。ということは、お釈迦さまとは、阿弥陀如来さまがこの私にわかるように姿を表して下さった仏さまなのです。

  ですから、阿弥陀如来さまと別にお釈迦さまを拝むことはいらないのです。しかし、お釈迦さまがこの世にお出まし下さったから、今私は、お念仏に出遇うことが出来ました。お誕生ありがとうございますとお勤めするのが灌仏会です。

『聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より

 「生ある者は必ず死に帰す」という事実は、おそらく知らない者はないでしょう。この問題についてはハッキリ解っているはずなのに、すべての人は、今なお生きるために、もがき、あえぎ、苦しんでいます。

 これは人間だけではありません。生あるものの本能ですから、止むを得ないことであると思います。私もこの一つの生物として生まれてきて、今、現に生活して、やはり生きぬく力を求めているのです。お互いに死を恐れる反面、生き延びる力を求めて止まないのです。それで死を恐れぬ心の力が得られるよう努力するのです。生あるものは必ず死ぬということは、よく知ってはいるが、身につまされて不安を感じていない。ただ生きるということにあくせくして、苦を積み重ねているのです。

 しかしながら、心を沈めて静かに考えてみると、この大事にして、求めている生は、そのままが死に接近しつつあることを忘れてはならないと思うのです。生死の境というものは、たいへん分別しにくいものです。

 生死の境とは、「平生の一日」、あるいは「時」にあるのですから、この境から脱する道は仏のみ教えに育てられる以外に無いのです。死を乗り越えることがすなわち生死の境から離れるということなのです。死を超えて生きるということは、今のこの姿のまま救われるということなのです。救われる身となれば、それは永遠に生きるということになるのです。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 こんな歌があります。「子が親思う思いは、思いを起こす思いにあらず、思わずに思いを起こす思いなり。」子供が親を思い、親を呼ぶとき、”さあ、いまから親を思おう、親を呼ぼう”などと考えて、呼ぶ子供はおりません。しらぬ間に口から出てしまう、心に思ってしまうのです。

 それはどうしてなのか。親の腹の中で、外から出てから大きくなるまでハダとハダを通して、親の思い、願いを受け取っているからではないでしょうか。親の子に対する願いの、思いのあり方を子供が受け取っている故に、親を思い、呼ばずにおれないのでしょう。

 ちょうど、お念仏もその通りであります。阿弥陀さまが、この私を思って下さるその思いを頂いた時、念仏申さずにおれません。阿弥陀さまの名を呼ばずにおれないのです。

 子供が親の願いの中にこそ生きられるように、この私も阿弥陀さまの願いの中にこそ生きていけるのです。子供が知ろうが知ろまいが、親の願いがあるように、私が知ろうが知ろまいが阿弥陀さまの願いがあるのです。願いを聞かせて頂き、その願いの中にこそ、真実の私の人生があることを喜ばさせて頂きましょう。仏さまの大いなる願いを私が望むより前に、仏さまから願われていることを忘れてはならないのです。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 こんな歌があります。「欲深き人の心と降る雪は積もるにつけて道を忘るる」私利私欲に追いまわされていると、人としての道を見あやまってしまう。自分の利のみを考えていると他人のことは見えなくなってしまいます。それは、あたかも雪が、田畑と道とをわからなくしてしまうのと同じように。

 この自己中心的な考え、自分だけよければ他の人はどうなってもかまわないと思う思いは、年とともに衰えていくのならいっこう気にする必要もないのですが、「食欲はむくろじ玉よ日に月に、黒くなるなりつやもつくなり」と衰えるどころか日に日に黒光りしてくるのです。本当に恐ろしいことです。

 70年、80年と生きるということは、この欲の心を持っての人生なのです。与えられた人生を豊かに生きぬいてゆくのには、欲を欲と知らすみ教えにあう以外、どのような道を歩んでいけば良いのかわからなくなってしまうのです。道か田んぼか分からなければ、あぶなくて歩けませんし、下手をすると大ケガをする恐れもあるのです。歩むべき道を示し、迎えとって下さるのが阿弥陀如来さまなのです。今すぐ、仏さまのみ教えにあいましょう。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 「桃栗三年、柿八年、柚子はスイスイ十三年、ビワのおお馬鹿恩知らず。」一般的に知識、知恵のないものを『馬鹿』といいますが、この歌から味わいますと、馬鹿とは恩を知らないものをいうのでしょう。桃や栗は三年で実がなる、柿は八年かかり、柚子は十三年かかれば実がなる。それに比べてビワの木は育てても育ててもいつ実がなるかわからない。育てがいのないのがビワの木ということです。

 育てられれば、それに報いていくことを恩というのです。恩という字は因(もと)の心、因を知る心でありましょう。今この私が存在しているのは誰のおかげか、いろいろなもの目に見えないものを含めて、この私を支えて下さっているということに気づいていくことが、恩を知るということになると思うのです。

 お寺でのご法座は亡くなられた方々を通して、仏様のみ教えに会っていくためのものであり、み教えに会うこと、そのことが亡くなっていかれた方々への恩に報いていくことになるのです。この私自身が、ビワの木にならないよう生きていきたいと思っております。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 自分の目で自分の顔を見ることが出来ないように、私たちは自分で本当の自分を見ることが出来ません。自分の顔を見る時には鏡を用いればよいのですが、自分自身の本当の姿は仏さまのみ教えにより知らされる以外ないのです。仏さまのみ教えによってこそ本当の自分が知らされ、自分の本性が見えてくるのです。

 例えば、道路に一万円札が落ちていたとしましょう。あなたはどうされますか。警察に届ける人、そのまま自分のポケットにそっとしまう人とに分けられると思います。「届ける人」は正直者と言われます。自分のものにしてしまう人は皆から良くは言われません。

 ここで少し考えてみたいと思います。私たちはひらってからのことばかりで判断しようとしますが、落ちているお金を見つけて、ひらうまでの動作や思いは問題にされておりません。人間の本性は一人のときに出るといいます。お金を見つけてひらうまでに何らかの動作をします。例えば前後左右を見ますね。それも無意識の内にです。どうして前後左右を見てしまうのか。はずかしいこと、恐ろしいことですが、誰も見ていなければ自分の所持金にしてしまおうという思いがそうさせるのではないでしょうか。

 ここを七高僧の曇鸞大師さまは、「蛇を竹筒に入れたるが如し」と言われました。阿弥陀如来さまはこの本性をかかえている者を救うおかたであります。共に聞法によって自分自身をみていきたいものです。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 他力の救いというのは、私が自分の力に頼らず、如来さまのご本願に救われることなのです。

 一般の宗教では、人が自分の力で悟りを開いていくのですが、その自分の力でなしとげられない分は、神さまや仏さまの力をかりて補って行うとするのです。

 しかし浄土真宗では、私の救われるすべてが、一から十までことごとくが皆他力なのです。如来さまの力に依るのですから、ただただ如来さまの不思議な力を頂くのみです。救いの全体が他力であるということを信じ知らしめられるだけなのです。

 だから、どんな人でも皆一人残らず救われるというのが根本の教えなのです。如来さまの本願力は名号として私へ届いて下さるのです。光明となって智慧となって働き、私たちを摂取し、おさめとって下さるのです。如来さまが名号と光明とをもって、私たちを救って下さることは、ちょうど母親が子供を育てるのに、乳房と手によって働きかけて下さるのと同じ有様なのです。母の母乳に子を育てていくすべての栄養がととのっているように、名号には私たちを救って下さるすべてがととのっているのです。共に如来さまのお慈悲を味あわせて頂きましょう。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

 光には三つの働きがあります。

 一つには、向きを光の方向に向かせる働きです。縁の下の日陰に生えているものは必ず光の方を向いています。

 二つには、ものそのものを知らせる働きです。闇の中では、ジャマになるものや見えなかったものが光に照らし出されると、生きてくるし見えてくる。例えば部屋の掃除をしていると、チリやホコリが宙にういている。光の届いてないところでは、見えませんが部屋に光がさしこむと、びっくりするほどのちりやほこりに気づくことがあります。光が届けばそのものが知らされるのです。

 三つには、ものを育てる働きです。どんなに手入れをし、水をやり、肥料を与えても光がなければものは育ちません。光にあってこそものが育っていくのです。

 如来さまは光明のおかたです。この私をお浄土に向かわせ、自分の中にある恐ろしいチリやホコリに気づかせ、必ずお浄土に往生させ、成仏できるように育てて下さるのです。

 光なくしてものが育たないのと同じように、この私に如来さまがいらっしゃらなければ、この人生を力強く生き抜くことが出来ないし、また、命終えればお浄土に往生し成仏することが出来ないのです。

 共に如来さまの光を仰いでいきたいものです。

『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より

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