三つの生き方
人間が生きていく生き方に三通りあります。
一つには、自分の好きなように、気ままに、思いつくままに生きていく生き方、これを動物的に生きる、本能的に生きる生き方というのです。
二つには、他人からほめられる生き方であり、よりよく生きる生き方。これは道徳的に生きる生き方です。
三つには頭の下がる生き方、尊く、有難く、おかげさまとの思いを持った生き方、これを宗教的に生きる生き方といいます。
自分の生き方がどれに入るかは、それぞれの問題としても、一つ目の本能的に生きる生き方に陥り易いことは否定できません。よく頑張ったとしても、二つ目の道徳的に生きる生き方でしょう。三つ目の宗教的に生きる生き方こそ、人生を有意義に過ごし、幸せを感じとりながら与えられた人生を精一杯生きぬくことが出来る生き方なのです。有難う、おかげさまと生きてゆくには目に見えないものを頂いていく智慧の眼を持たねばなりません。
その智慧の眼を与えて下さるのが仏さまのみ教えです。お寺参りをさせて頂き、お話を聞かせてもらうそのままが、如来さまの智慧の中に座らせてもらっていることなのです。時間をつくり、み教えを聞かせて頂き、二度とない人生を豊かに生きぬいていきたいものです。
『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より
人間には皆んな欲望があります。そして自分の欲望を満たすために一生懸命になっているのです。この欲望のためにいがみ合い、憎しみあい、恐ろしい殺人事件にもなりかねないのです。
では欲望を持ってはいけないのか?。ということになりますが、あるお寺の掲示板にこう書かれてありました。
欲望の否定は人間の廃業を意味し
欲望の肯定は人間の動物化をうながし
欲望の変革は人間性の回復を招来する
欲望を持ってはいけないと言えば人間をやめねばなりません、そうかといってそれを認めていく考えでは人間を動物化させてしまう。欲望はあってあたりまえ、無くしてよしとするものでは無く、欲望をどちらに向けていくかということなのです。欲望を持っていない人間はいませんが、その欲望を向けていく方向によって、その人の人間性がうかがわれるのだと思います。
欲望によって道をはずしそうになる私たちに、歩むべき道を示して下さるのが仏さまの教えなのです。
『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より
私たちの日暮しは、自分の欲望を追い求めて、それを満足させるためのもので終ってはいないでしょうか。自分の思いが満足されれば幸せと思い、反対に満足しない場合は不幸と思っております。
誰でも自分の思い通りにしたいと思わないものはありませんが、しかし、思い通りになったからといってそれがずっと続くとはかぎりません。一時の幸せは本当の幸せではないのです。「お金や、財産があって、いいつれあいがいて、人からいいように言われて、立派な家に住んで、美味しいものが腹いっぱい食べられる」ということが、現在の生活において最高の幸せ物であるように思われておりますが、よくよく考えてみれば、そのことは永久に続くものではありません。
人は老い、病気になり、死んで行くのです。若い時は、お金や名誉などで満足出来る人もおられるでしょう。
しかし、年をとっていくとそれらがひとつひとつ欠けていくのです。そして幸せと思っていたものが、全てむなしいものであったと気が付くのです。
そういう人がいう言葉に「私は何のために生きて来たのか。」二度と帰らぬこの人生です。真実の教え、仏さまの教えにあってこそ生きてくるのです。
共に仏さまのみ教えに会いましょう。そのためには、寺に参りお聴聞する以外他ありません。
『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より
あるご法座でのことです。子供を含め、たくさんの方がお参りしておられました。その中の一人の子供にたずねたことです。
私が「東京へ行くのにどうすれば良いか」と、たずねますと、子供から「電車か飛行機で行けば良い」という答えが返ってきました。「では、どの電車に乗っても東京へ行くのか、どの飛行機にのっても東京へ行くのか」とたずねかえしますと、子供は「そりゃあかん、東京行きでないとダメ」と言いました。つづいて「どうして東京行きだと東京に行けるのか」と問い返すと、子供は「それは東京行きだから」と答えました。
大人よりも子供の方が素直で答えが早く返って来ます。こういう道理はわかっても、私たちは仏さまに成る、お浄土にお参りすることになるとサッパリだめなのはどうしてでしょうか。お浄土参りも同じであります。東京へ行くのには東京行きの乗りものに乗らねばなりません。東京行きの乗りものに乗れば東京へ行くことは知っていても、乗らなければ行くことは出来ないのです。お浄土に生まれさせて頂くのには阿弥陀如来さまのみ教えに会う以外にはないのです。み教えそのものがこの私のためのものだからなのです。み教えに会う機会があっても、会おうともせず、「死ねば皆、仏」と思いこんでいる人がいかに多いことか。「法を得くるに身を持ってせよ」とのお言葉もあります。体をはこびご法座にお参りし、お聴聞して頂きたいものです。
『聞法(1990(平成2)年7月16日発行)』(著者 : 佐々木 大観)より
一口にわかったといっても、いろんなわかり方があるようです。頭で理解できたのもわかったということでしょうし、心で共感したのもわかったということでしょう。
仏教では領解(りょうげ)と言う言葉で、このわかったということを味わっています。
領解とは、頭でもなく心でもなく、身に受けとめることができたということです。頭の理解は、上手な説明であれば達成します。心の共感は、上手なお話にあえば生まれてきます。
ところが、身の領解は、どれほど上手なお話にあっても実現しません。身の領解は、み教えを身にかけてよろこんでいる人のよろこびに遇わないかぎり、開けてこないようです。
ですから、ただ説明やお話の表面を聞いているだけでは領解にはなりません。ではどうしたら領解になるのでしょうか。領解は言葉の奥にある語る人のよろこびが受けとれたときに実現するのです。
言葉の表面だけでを聞くのではなく、言葉によって語られている語る人のよろこび、すなわち、語る人のみ教えに遇ったよろこびに遇うのが領解なのです。
蓮如上人が「御一流の義を、承はりたるひとは有(あれ)ども、聞うる人はまれなりといへり、信をうる機(人)まれなりといへる意(こころ)なり」といわれたのも、ご法話の言葉の表面だけをうけたまわっている人はあるが、その言葉の奥にあるこころといいますか、よろこびを受けとる人はすくないといわれたのです。
ですから、阿弥陀如来のあたたかいお心を真に受けとる人、すなわち信心の人はまれであるといわれたのです。この蓮如上人のお言葉のおこころをしっかり受けとめさせていただきたいものです。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より
すこし勉強すると、何もかもわかったような気になるものです。ですから、あまり勉強しない人に限って、もう勉強することがないようなことをいうのです。勉強すればするほど、勉強しなければならないことが増えてくるという人がいますが、こちらの方が本当だと思います。
本でも読みだすと、あの本も読まなければ、この本も一度目を通しておかなければということになります。仏法聴聞においても同じことがいえるのではないかと思います。
ちょっとかじり聞きした人に限って、仏法がわかったようなことをいいます。ひどい場合、二、三度聴聞しただけで、仏法のすべてがわかったようにいう人さえいます。仏法はそんなに底の浅いものではありません。聞いても聞いても奥があり、あきることのないものなのです。
もう聞いて知っていますというのはあまり聞いていない証拠です。聞けば聞くほど、阿弥陀如来のお心の深さ大きさが、途方もないもので、まだまだお聞かせにあずからねばとなるのが仏法聴聞です。
蓮如上人と同じ時代に生きられた法敬坊(ほうきょうぼう)という人は九十才まで生きられましたが、「この歳まで聴聞まうしさふらへども、これまでと存知たることなし。あきたりもなき事なり」といわれたそうです。
私は、法敬坊の素晴らしさを思うと共に、仏法のといいますか、阿弥陀如来のお心の深く大きいことをあらためて思わせていただきます。
九十才にして、まだまだと阿弥陀如来のお心を聞いていかれた大先輩をもったことが、私は何よりもうれしいのです。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より
言葉は相互の理解を深めるためにあるのでしょうが、この世では「相互の誤解を招くためにある」のかと悲しくなることが度々あります。
先日も「先生の本を読んで仏教を聞く気がなくなったといっている人がいる」という話を聞きました。「どういうことですか」とお尋ねしますと、「お釈迦さま生まれて七日目に歩いたと書いてあったが、そんな馬鹿なことはない。そんな馬鹿げたことを書く先生の話は聞きたくない」といわれていることでした。
しばらく考えていてわかったのです。私が『少年少女のための法話集』という本に、釈尊はこの世にお生まれになった時、7歩あるいて天と地を指さし、「天上天下唯我為尊」といわれたと伝えられていますが、その意味するところは、六つの迷いの世界をこえて真実に生きられた人ということですと書いたのを、すこしかじり読みされて、七歩が七日になったのだと思いました。
直接尋ねてくだされば「もう仏教は聞かない」というような悲しいことにはならないのにと、やりきれない思いになりました。
蓮如上人は「日比、しれるところを、善知識にあひてとへば、徳分あるなり」といわれました。「わかったつもりになっているところでも、重ねて尋ねることが大切です」といわれたのです。
そして続いて、「不知處(しらざるところ)をとはば、いかほど殊勝なることあるべき」といわれています。すなわち、「だから、わからないことを尋ねることは、どれほど素晴らしく大切なことかわかりません」といわれたのです。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より
誉めるということほど、私たちにとってむつかしいことはありません。それに対して、くさすことのなんとたやすいことでしょう。どのような場でも誉める言葉は十分と続きませんが、くさす言葉なら一時間でも二時間でも続きます。ですから、誉める言葉から始まった話でも、気がつくと、くさす言葉の連発になっていることがあります。
あの時のあの人はすばらしかったという話が、「それはそうだけれども」という言葉が入ると同時に、「あの人のあの態度はいかん」、「あの時のあの行動はいただけない」と、悪口に変わってしまいます。
法話は仏法讃嘆です。阿弥陀如来の私たちを案じてくださるあたたかいお心をよろこび、ほめたたえるのが法話です。
世間話は、人の噂話が中心です。それも人を誉める話でなく、人をくさす話が世間話の中心です。ですから、誉めるよりくさすのが上手な私たちは、法話であっても、すぐに世間話に変えてしまいます。
蓮如上人のころも、そういうことが多かったようです。「仏法のことをいふに、世間のことにとりなすひとのみなり」という蓮如上人のお言葉が残されています。
私たちは仏法の話が世間話になると嫌気がさして投げ出してしまいますが、蓮如上人は「それを退屈せずして、また仏法のことにとりなせ」とお示しくださいました。
世間話になったからと投げ出せば、話はいつも世間話で終わってしまいます。それをもう一度、仏法讃嘆の話に引き戻すように仕向けるのがみ教えに遇ったものの責務だと思います。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より
阿弥陀如来のすくいは「そのままのすくい」といわれます。私たちに何か条件を出して、この条件を満たしたらすくってやろうというようなすくいではありません。
「あなたはあなたのままでいいから力いっぱい生きなさい、どんなことがあっても私はあなたを捨てません」と、私の「いのち」の全体をつつみ、ささえてくださる阿弥陀如来のあたたかいお心に遇って、小さな「我」の殻にこもっている私たちが、その小さな「我」から開放されることが、阿弥陀如来のすくいなのです。
ですから、私が何をどうしたのか、私がどう思ったということは、救いに関係のないことです。阿弥陀如来のあたたかいお心が、小さな「我」の殻に閉じこもって冷えきっている私の「いのち」をときほぐしてくださるのがすくいなのです。
このようにすくいは阿弥陀如来の一方的なおはたらきで実現するのです。それを「そのままのすくい」というのです。ところが、これを受けとり違いをして、「このまま」と横着な人間が、自分の横着に合わせて受けとりますと、横着がますます横着になり、勝手気ままな生き方になります。
蓮如上人は「我が心にまかせずして、心を責めよ。仏法は、心のつまる物かとおもへば信心に御なぐさみ候」といわれました。
「横着な心にまかせず、心をひきしめ、たしなみなさい」といわれたのです。そして、「そういうと仏法とは堅苦しいものだと思うかもしれませんが、阿弥陀如来のあたたかい心にふれて、常に慰められるので、本当は堅苦しいものではないのですよ」と教えてくださいました。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より
私たち、誰のことが気になるといっても、わが妻、わが子ほど気になるものはありません。私たちは何よりもわが妻の幸せ、わが子の成長を願って生きています。
ところが、私たちはこの願いを実現するために、案外的はずれなことをしているのではないでしょうか。お金を与え、物を提供さえしておけば妻の幸せが実現し、子の成長が順調にすすむと思っているならば、それは的はずれです。
確かにお金も物も大切ですが、それより大切なものは、世の中がどう変わろうが、この身の上に何が起ころうが、ビクともしない確かな「いのち」のよりどころです。
この、どんなことがあっても間違うことのない「いのち」のよりどころを教え、すすめることこそが、本当の幸せ、本当の成長を願う行為なのです。
ところが、いくらそう思っても、自分の力だけではどうにもならないこともあります。いや、そういっている自分はどうなっているかと、自らをふりかえるとき、自分は本当に確かなよりどころを聞き開いているのかということになります。
どんなものでしょうか。蓮如上人は「わが妻子ほど不便なることなし。それを勧化(かんげ)せぬは、あさましきことなり。宿善なくばちからなし。わが身ひとつ。それを勧化せぬものがあるべきか」といわれています。
「本当に妻子を思うならば、妻子にみ教えを勧めるべきです。それをしないほど悲しいことはありません」といわれ、「そのためにも、まず自分自身がみ教えに遇わせてもらうことが何よりも大切です」と教えてくださったのです。
『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より


