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一度のあやまち

 私たちは、他の人のあやまちはなかなか許しませんが、自分のことになると「一度や二度のあやまちは人間誰でもするもんだ」と、いとも簡単に許します。

 他の人が何か失敗されたときに、「一度や二度」というのはわかるのですが、自分のあやまちを「一度や二度」というのはどうもいただけません。

 蓮如上人は「一度のちがひが、一期(いちご)のちがひなり。一度のたしなみが、一期のたしなみなり。そのゆへは、そのままいのちをはれば一期のちがひになるによりてなり」と、厳しくご注意くださいました。

 どういうことかと申しますと、「一度のあやまちが一生のあやまちになることがあります。反対に、一度こころがけたたしなみが、一生のこころがけとなり、たしなみとなるものです。どうしてそういうことがいえるかといいますと、一度のあやまちをおかしたまま寿命が尽きれば、そのあやまちをやり直すこともできず、とり消すこともできませんから、一生のあやまちになるのです」と教えてくださったのです。このお言葉は他の人に向けてのお言葉ではありません。あくまで私にご注意くださった言葉なのです。

 他に人のやっていることは厳しく指摘する私たちが、自分のことになると、はじめにも申しましたように、「一度や二度のあやまちは誰でもある」と、おうような生き方をしています。

 自分の一度のあやまちが、他の「いのち」をどれほど傷つけ、損うかということに心し、気をつけていないと、とり返しのつかないあやまちをおかすことになります。そのことを蓮如上人は厳しくご注意くださったのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 複数の人間がいっしょに生活していると、どれほど仲のいい間柄でも、ときにはぶつかることがあります。ぶつかるというのは近いということですから、ぶつかることそのことは、ある意味ではいいことです。いっしょにいて、全くぶつからない方がかえって問題です。

 ぶつかることのどこがいいのかといいますと、ぶつからないと表に出てこないお互いの胸の奥にあるものがわかり、より深く相手を理解できるということがいいのです。

 ところが、ぶつかったあとの処理をあやまりますと、いっしょにおれなくなることもあります。ぶつかったあと一番大切なことは、自分の悪かったところを素直にあやまることです。

 私たち人間のやることに、一から十まで正しいということもなければ、一から十まで間違っているということもありません。正しいと思い込んでいる行為にも、あとでふりかえれば、あの点はどうもいけなかったということが、一つや二つはあるのです。その気づいた点だけでもあやまれば、お互いの結びつきはかえって強くなり、ぶつかったことがいいことになるのです。

 ところが、これは「言うは易く、行うは難し」です。

 蓮如上人のお言葉に「たれのともがらも、われはわろきとおもふもの、ひとりとしてもあるべからず。これしかしながら、聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり」というのがあります。

 「親鸞聖人のみ教えに遇って、自らをふりかえる目を恵まれたら、このようなことにはならないだろう」と、蓮如上人は教えてくださったのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 「お話を聞かせていただいても、聞かさせていただいたしりから忘れてしまいます。こんなことでは聞くかいがありません。もう聞くのをやめようかと思います」という人によく会います。

 私はこのような人にいつも、「あなたは三日前の昼のおかずを覚えておられますか」と尋ねるのです。そういうお尋ねをしますと、十人が十人、しばらく考えたのちに、「いや、思い出せません」といわれます。そこで、「忘れたら身につかないのなら大変ですね」というのです。

 覚えていないと身につかないということなら、大変なことです。頭で忘れても、身に必要なものはちゃんと身につくのです。教えも同じことです。だから「忘れることを気にせずに、一ぺんでも多くのみ教えを聞かれることが大切ですよ」と、私はいいます。

 蓮如上人はどうご指導くださったのかといいますと、「我こころはただかごに水を入候やうに、仏法のお座敷にてはありがたくもたふとくも存候が、やがてもとの心中になされ候と申され候」というお尋ねに対して、「そのかごを水につけよ、我みをば法にひてておく(浸しておく)べき」と答えられました。

 「私の心は竹で編んだザルのようなもので、聞いている時は『ありがたいお話、尊いご縁』とよろこばせていただきますが、やがて水がザルのすき間から抜けるように、聞いた話がどこかに消えてしまいます」のお尋ねに対して「ザルのようにすき間が多ければ多いほど水につけておけば、水は内外ともにひたしてくれるよ」と答えられたのです。

 忘れることを問題にせず、一度でも多くのみ教えを聞くことを問題にしたいものです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 仏法を聞くとは、経文を覚え、偉い先生の話を覚えることではありません。経文のお言葉が、今、ここにいる私に何を教え説いてくださっているのか、偉い先生のお話は、私に何を問いかけてくださっているのかと、経文の一言一言を、先生のお話の一つ一つを、自らの身にあてて味わうのが仏法聴聞なのです。

 お経にこう書いてあるから、こう聞いておけば間違いない、先生がこう言われたのだから、こう思っておけば間違いないという聞き方は、仏法を聞いたのではなく、ただ覚えただけです。

 ですから、仏法を聞いているといいながら、「人間はみな悪人である」と覚え、「その悪人をすくってくださる如来さま」と、覚えただけの人が案外多いのです。仏法を覚え知っているだけでは、仏法は全く生きる力になりません。

 身にかけて問い、身にかけて聞くとき、仏法は何よりも強い力となって、わが「いのち」をささえてくださいます。蓮如上人は「かむとはしるとも、呑とはしらすなといふことがあるぞ」と教えてくださいました。

 すなわち、「食物でも、しっかり噛んでその味を十分に味わうことが大切であるということを教え、鵜呑みせよと教えてはならない」と教えてくださったのです。

 そして、続いて、「妻子を帯し、魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思のままにあるまじき」といわれました。

 仏法をしっかり噛みしめて味わえば、「罪の深い人間だから、悪人だからといって、勝手気ままな放逸無慚の生活などできるはずがない」といわれたのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 幼い頃には何かにつけて、「お母さん、お母さん」といっていたお互いが、いつのころからか「私が、私が」となって、何かにつけて、「私がこうしてやっているのに、あの人はよろこばない」、「私がこう言っているのに、誰それは聞かない」、「私がこう考えているのに、あれは違うことをする」と「私が」が前面にでてきます。

 この「私が」と「私が」がぶつかって、不隠な空気を常にかもし出しているのが、私たちの生活です。

 蓮如上人は「仏法には無我と仰られ候、我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」とご注意くださいました。私が、今、ここに生きているのは、「私が」ということで生きているのではないのです。多くの「いのち」をいただき、多くの「いのち」に支えられて生かされて生きているのです。

 この自分の身体ひとつ考えてみましても、自分でこしらえた部分など一ヶ所もないのです。ではどうして、ここにこの身体があるのかといいますと、多くの「いのち」が、私の身体になってくださったからであります。

 そして、この身体を維持するために、また多くの「いのち」にご苦労をかけているのです。多くの「いのち」によって存在せしめられ、多くの「いのち」によって何事もなさしめられているのです。

 そのことに目を開けという教えが仏法です。ですから、仏法に遇ってみると、「我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」ということになるのです。

 「私が」でなく、多くの「いのち」によってというのが、「いのち」の本当のあり方です。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 世の中が便利になればなるほど、人間は忙しくなるようです。理屈からいうと、世の中が便利になった分だけ、人間がゆっくりできるというのが本当でしょうに、現実は、便利になった分だけ忙しくなるようです。人間が便利を使うのでなく、便利に使われているようです。それで、「これもしておかねば、あれもやっておかねば」と、便利さに追いかけられて、忙しい忙しいと、右往左往しているのが私たちの毎日です。

 そんな私たちに、「本当に急がなければならないのは仏法聴聞である」と、蓮如上人は教えてくださいました。

 多くの「いのち」に生かされているわが「いのち」でありながら、自らの利益の追求にあけくれて、大切な「いのち」を空しく過ごす。それも、わが「いのち」を生かしてくださる「いのち」を踏み台にして、自らの幸せを求めているのです。何とおそろしいことでしょうか。そのような努力はどれほど続けても本当の幸せには至りません。

 わが「いのち」を生かしてくださる多くの「いのち」の幸せを願うことなしに、わが「いのち」の幸せはありませんと教えてくださるのが仏法です。

 ですから、本当の幸せを求めるならば、自分のやっていることのおそろしさに気づかせていただき、仏法を急ぎ求めることです。

 蓮如上人はそのことを、「仏法のうえには事毎に付て、空おそろしき事と存候べく候」といわれて、続いて「仏法には明日と申事有間敷候。仏法の事はいそげと仰られ候なり」とご注意くださいました。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 この世を生きるのは忠孝の道、この世の規範は「教育勅語」という時代の中で、仏教は「前生の業」をとき、「後生の楽果」のみを説くものになってきました。

 ですから現代でも、お寺は死後とまでいわなくとも、死が近づいてから用のあるところと考えている人が多いようです。

 仏教は、前生と後生のみを説くものではありません。今生、今、ここに生きている私が、この「いのち」をどう生きるのかということが釈尊の一番あきらかにしてくださったところです。

 「寝て食て、寝て食て、忙しい、忙しい」だけで、この「いのち」を終わるならば、こんな悲しいことはありません。いただいた「いのち」を本当に活かしきって、一日一日を生きる。そのためには、確かな「よりどころ」をもちなさいと教え、その確かな「よりどころ」をあきらかにしてくださったのが仏教です。

 ですから、仏教に遇うのは早ければ早いほどいいのです。若ければ若いほどいいのです。だからといって、年老いたものは仏教を聞く必要がないということではありません。一度は必ず仏教に遇ってほしい、遇うのはすこしでも早い方がいいということです。

 蓮如上人のころの話ですが、仏法をよろこんでいた人が「わかきとき、仏法はたしなめと候。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきとき、たしなめ」といわれたというのです。

 確かに年をとると、足が痛くて寺まで参れない、参っても足が痛くて座れない、座っても居眠りが多くなるということになります。

 どちらにしましても、みなさんに一時も早く仏教に遇われることをおすすめしたいのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 この度は、本願寺八代目蓮如上人のお言葉を続けてお味わいさせていただこうと思います。

 現代ではお念仏といいますと、口で「ナモアミダブツ」と称えることだとみんな思っておられるでしょう。ところが、中国の善導大師さまのころまでは,そうでなかったのです。念仏とは、文字通り仏を念ずること、仏を憶うことだったのです。

 この仏を念ずるとか憶うということは、心が乱れていてはできないことです。ですから、見るもの、聞くものによって常に心乱されているものにとって、念仏することは大変むつかしいことでした。

 善導大師さまは、常に心が乱れているものでも、「ナモアミダブツ」を称えることはできるでしょうと、称えることをすすめて、念ずるとは称えることだと教えてくださいました。

 それで、現代ではお念仏といえば「ナンマンダブツ」と称えることになったのです。

 ところが、この善導大師さまの「念ずることは称えることだ」という意味がよくわからないという人がいたのです。蓮如上人は「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」という諺をひいて、そのことを教えてくださいました。

 心は乱れていても、「ナモアミダブツ」のお念仏が口から出るのは、やはり阿弥陀如来を憶うこころがうちにあるからですよ、と蓮如上人は教えてくださったのです。もっといいますと、阿弥陀如来のお心が私に届いているから、「ナモアミダブツ」が口から出てくださるのです。

 ですから、自分の心をあれこれ詮索せずに、「ナモアミダブ」が口から出てくださることをよろこばせていただくのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より

 御文章に「他力の信心といふはいかようなることぞといへばただ南無阿弥陀佛なり、この南無阿弥陀佛の六つの字のこころをくわしく知りたるが即ち他力信心のすがたなり」
とありますから、知るということがとても大切なことになります。

 同じく御文章に「それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす」
とあって、そのあとに「後世を知る、物を知る、謂を知る、……と知る」と幾度もいくども知るという言葉が説いてあります。

 知るということを世間一般に解釈されている意味は「わかった、おぼえた、理解した、知った」となっています。すると現代の知ることの意味からして御文章を解釈すると、六つの字のこころがわかったことが他力の信心であるという解釈になりますが、これでいいのでしょうか。わかったことは人間の知識のことであります。仏の教えは人知ではなく仏智のはたらきですから、人間の理屈を持ち出しても通らないすがたで、心の底から納得するとでも申しますか、心の頭がさがって仏にまかせるとか、仏のお慈悲にめざめたことが「知る」ということであります。

 人間の知るということは、知れば知るほど驕り高ぶる驕慢がさかんになって眼が外向き、他とくらべて頭が上る一方です。

 仏法の知るということは、自分のはからいや分別が役立たないことに気づき、へりくだりの心にめぐまれるので、頭が下がるのです。

 この、へりくだりの心が身についてくださることが「知る」ということで、仏法を南無することがへりくだりの心を育ててくださるのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 いまの世を仏教では末法の時代と言われ、キリスト教では終末の世であると表現される通り、お釈迦さまもなくなって二千余年になります。お釈迦さまの教えが現実生活の中にも、次第に見当るものが少なくなっています。

 仏教の教団は数多く、仏教徒も釈迦在世のころからみると多いのですが、仏法を信ずるものが仏弟子であるとすると、真の仏弟子としてのめざめというものが問われる時代であります。

 仏法が消えて滅びてしまう、悟ることもできないことを大無量寿経巻下に
 「当来の世に経道滅盡せん、我慈悲を以って哀愍し、特に此の経を留めて止住すること百歳せん」
と示されているのが現代そのものなのです。

 この末法の時代に生きていかねばならない我が身はどう生きることが仏弟子と言われるのであろうか。現代は合理性の時代です。人間の生死の線まで合理的に解釈してそれで満足しているのです。人が亡くなると永眠したと申します。ねむることをもって死と解釈しているのです。ねむることは生きている時の状態であるにもかかわらず、死んだとは言わない。

 私たちは「生」に執着し「死」をきらうことから抜けきれないのです。仏法は生死平等に味わうところに真実性があるのですが、執着を優先して事実を都合のよいように理解しているのです。

 お釈迦さまが亡くなっている現代、入滅は事実であって永眠ではないが、仏説は真実なる故に、法は常住、衆生のいのちのつづく限り法は不変常住で、いつでも仏と共にあることをめざめることが真の仏弟子であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

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