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法事にはお経

 亡くなった親兄弟の年忌が来ると、各家庭では法事を営みます。家族が揃って法事に参れる日を選んでお寺にお願いし、親類の人にも参ってもらうようにご案内をします。法事と仏法の事を中心にするから法事と言うのですが、最近はどうも法事が世間事で終る場合が多くなっているのではないでしょうか。

 「お経」の勤まっている間はお寺さんの時間だと思われ、「おとき」となると我らの時間がきたとばかり食事をしながら世間話がつづくのです。車の話、ゲートボール、温泉旅行、ゴルフの話が延々とつづくのです。仏法の話が出かけたかと思うとすぐに切れてしまうのです。法事とは名ばかりで、世間のこと、たべることで終ってしまうことが悲しいことです。

 これからは法事のご案内を受けられたら、その日は時間前に早く参って、お経の勤められている間は話をしたり、タバコをのんだりお菓子をいただいたりせずに、お経中は心を静かにして、今、ご住職が勤めておられるお経は「仏さまが、明日のいのちのわからないような私を、必らずお救いくださる」と、真実の仏の世界から私たち凡夫の身の上にとどけてくださった仏のまことの言葉をお経としてあげてくださっているのであると、幾度もいくどもくりかえして、思いを深め静かにお念仏を口の中で称えさせてもらうことが法事であります。

 故人となられた方々を縁として聞法する機会に恵まれたのですから、平素仏法にご縁のない人も、忙しいことに流されている生活に時間をさいて仏縁を大切にすることが法事の心であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 親鸞聖人は数多い仏説の中から、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経を「浄土三部経」と選び出され、この三部の中、特に仏説無量寿経を真実の教とお示しになりました。

 この三部の経を浄土真宗の依りどころとされたのですから、最も大切なお経なのです。その所説のお心を伺ってみますと、まず仏説無量寿経は大経とも呼ばれていますが、阿弥陀如来がどのようにしてお浄土を現わされたかのすべてと、そのお浄土にはどのようにして生まれるのかということについての、願いとはたらきを明らかにされたお経です。

 つぎに仏説観無量寿経は観経と呼ばれていますが、私たちのように罪深く、迷多く、どうにもしてみようのないあさましい者で、とてもお浄土に生まれるための十三の修行の方法がむつかしくてできないので、仏さまは少しも善いことのできない私たちに、南無阿弥陀佛を口に称えなさい、お念佛以外にはどんな善いことでも浄土に生まれる役にはたたないのであると説かれているお経です。

 つぎに仏説阿弥陀経は小経と呼ばれています。小さい無量寿経と言う意味でしょうか、すなわち、お浄土のすばらしさ、仏さまの尊さを三十六回もくり返しくり返し舎利佛に説いておられ、このお浄土へは己が少善根福徳の因縁を以てしては生まれられないが、南無阿弥陀佛の名号を信じ称えることによって、必らず救われることを、六万の無量の諸仏が証拠人となっておられることが説かれているお経です。以上の三部経のお心をまとめると仏さまが(大経)この私を(観経)必らずお救いくださる(小経)お経であるといただくことができます。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 姿や形のない仏のはたらきを、凡夫の心に少しでもわかるように、文字と言う形で表されたものがお経です。

 お釈迦さま一代のご説法の特長は、相手に応じてお経が説かれたことです。キリスト教でもイスラム教でも相手に応じた教えではないようです。また孔子の聖語も相手に応じて説かれたものではないのです。ですから仏説を応病与薬の法であると言われるのです。そのためにお経の数もそれを註釈したものまで加えると八千五百六十二巻におよんでいます。その内お釈迦さまが説かれたお経が約七千八百巻といわれています。

 お経は「仏さまの説かれた教え」であり、「仏のことを説いた教え」であり、「仏になる教え」が説かれているのです。

 世に正しい教えと申されているものは、お釈迦さまが説かれたこのお経を根本として、それを論じ、それを釈したものを人間の計らいや分別をまじえずに、疑いなく、素直にその心にふれ、生活実践の要とすることであります。どれほどすばらしいお経でも、私たちの凡夫に相応してくださらない、とてもかけ離れたお経では、ちょうど道があっても通れない道と同じことです。

 凡夫なるが故に凡夫にぴったりと仏さまの方が離れてくださらないお経が説かれていることが、相手に応じてお経をお説きくださったお心であります。

 凡夫の方から心を運び、努力精進してお経の心に近寄ろうとするお経が多いようです。

 今、凡夫のために説かれたお経として親鸞聖人は、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経の三つのお経を選ばれたのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 人の寿命は五十年、八十年などを一代とし、長いようで短いはたらきです。この世といいますが、人間のはたらきはこの世のすべての人に対してはたらきかけられるかと言うとそうはいかないのです。我が子だけとか、身内だけとか限られた範囲でのはたらきしかできないのです。

 仏さまのはたらきは三世十方で、しかも衆生のひとつのいのちも落ちこぼすことなく、ひかりといのちをもって摂め取ってくださることをお釈迦さまが教えてくださったのです。

 三世は無始以来の過去、確かなる現在、無限の未来のことで、十方は東西南北の四方と南東、南西、北東、北西の四隅と上下の併称です。その中に生きる衆生です。衆多の生死をくりかえすもの、また、衆多の妄想を生起するものが衆生とありますから、あなたのいのちもその中にあるのです。

 しかも、仏さまの慈悲と智慧のはたらきは、人間だけでなく「十界」に及んでいます。

 十界とは苦しみが命のすべてである地獄、欲しい欲しいの心が命の餓鬼、欲望だけが生きがいの畜生、争い心や思ってはならないことが思える修羅、迷いの世界ではあるが辛い聞法をすることのできる人間、楽しみばかりの天上、教えを聞いて悟りを開く声聞、自分ひとりで悟る縁覚、仏たらんと志ざして修行する菩薩、真理を悟り衆生をも悟らしめる覚者を仏とする十界であります。

 このうち地獄から人間まではそれぞれ同居しているとあって、姿は人間でも心は苦悩や欲望、争いに満ちて、人をきずつけ、心で人を殺したりする恐ろしい心の持ち主ですから同居とあるのです。これらのすべてにわたって仏のはたらきは至りとどいているのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 仏教はお釈迦さまによって説かれた経典がよりどころであります。

 正しい教えには必らず「依りどころとなる経典」があるのです。人は生まれながらの生活をしていると、野育ちと同じことで貪りと怒り腹立ちと愚痴の生き方しかできないのです。その野育ちのいのちを、仏さまの教えによって耕やされて本物にめざめるはたらきを文化と呼び、その依りどころを経典によることによって仏教文化と呼ぶのです。

 一般にお経はお釈迦さまが三十五歳でお悟りを開かれて以来、各地で説法されたものを、お釈迦さまがご入滅後まとめられたものがお経で約七千八百巻と言われています。

 お経はいつの時代にも変わらない真実の理を説いたもので、お経の語は織物のタテ糸とか、線、物ごとのすじ道を表わしたものとされています。

 仏教には経典、キリスト教には聖書、イスラム教にはコーランがありまして、いつの時代にも人間の環境の変化にかわることのない道すじを説かれたもので、織物のタテ糸にたとえられたこともうなずけます。織物で「タテ糸」がしっかりしていないとヨコ糸が織れないのですから、特にタテ糸は欠かすことのできない大切な糸であります。

 ちょうどそれは真実の世界から迷いの世界に届けられた真実の「タテ糸」です。お経は真実の世界からの真実の言葉です。迷いを転じて悟りを開く智慧の教えを説かれたものがお経です。世間でどれほど仏説のように、仏法のもの知りのように人に話す人があっても、お経に説かれていないことを説き伝えることは仏教ではありません。よりどころのないものは俗信であって仏教ではないのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 私たちは生活に困ったことや都合の悪いことが起きると、仏さまを拝んだり先祖を大切にすることがあります。それは仏さまの力や先祖の力で、困らないようになりたいとか、都合よくなる力をさずかりたいと願うわけです。

 ところが仏さまは困った人を困らなくしたり、都合の悪いことを都合よくしてくれる便利な方ではありません。

 逆に、仏さまが人を困らせたり、先祖にお経を勤めないから罰をあたえたりすることもありません。

 仏さまは困っている人や都合の悪い人の心の中にはいりこんで、心を解きほぐして、困った困ったとしか思えない人の心の方向を転じて考えてみましょうと、仏さまも困った人と共に考えてくださるのです。

 すると困ったことは変らないが、困っている最中にありながら、心が開けて、困ったことの元の起りが自分に存在していたことや、相手ばかりを悪ものにしていたことなどが自然とわかって、自分の心や、人の心の姿まで知ることができるのです。そうかといって困ったことが無くなるのではありません。都合の悪いことはやはり都合が悪いのですけれども、そのことに心が執着しすぎなくなるのです。むしろ、困ったことに出会ったおかげで、いろんなことを知ることができたことは有難いことです。

 このことは煩悩に生きる自分の力では恵まれないことです。仏のはたらきによるもので、仏さまは先祖にも私たちにも分けへだてなく、いつも離れてくださっていないのです。仏さまが現に今、私と共に、私を離れてくださっていないことの確かさを身体全体でいただくことが、仏法または仏教の現代性と言うことになるのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

  仏教について考えてみましょう。仏教は先祖のことだとか、老人のためのものだとか、死人のあるときだとか区別のない、生命あるすべてのものが仏の教えの対象なのです。

 仏教のご縁にはまだまだ早いと思っておられるあなたも、すでに仏の教えの対象に入っているというわけなのです。仏の教えからは逃げているつもりでも逃げられないのです。

 仏教とは「仏の教え」であり、「仏になる教え」であります。仏になるのはご先祖ではなく、一寸先が闇で明日のいのちもわからない生活をしている私なのです。
私が仏の教えを聞いて仏になる教えですから、私がお留守では仏教にならないのです。

 世間には先祖があると仏縁があって死人がないと仏縁がない、先祖のない人はひとりもないので、先祖のいのちが「あなたのいのち」なのです。人すべて、「はじめに親あり」です。

 仏教は一切のすがたは縁によって起ると教えられていますから、先祖をご縁として仏縁に会い法を聞くことも尊いことです。

 古来、仏教のことを仏法とも言われたもので、「法」とは、はたらきのことです。法とは「支える」「保つ」「守る」はたらきのあることを法といわれているので、例えば老人医療法と言う法律があるとすると、国内どこでも老人はだれでも、分けへだてなく「支え」「保つ」「守る」はたらきによって治療をうけることができるのです。そのはたらきのことを法と申します。

 仏法とは一切の衆生を慈悲と智慧のはたらきで、必らず支え保ち守ってくださっている、仏のはたらきにつつまれていることを教えくださるのが仏教であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

  人間はもとよりエゴと偏向性の連続の動物ですから、貪り(むさぼり)の心と、怒り腹立ちの心と、愚痴の心をいのちとして生きているのです。

 これを迷いの世界と申しますが、この迷いの世界に生きるすべての「いのち」に対して、「さとり」の道すじを伝え知らしめ、さとらしめるはたらきが「智慧の宗教」であります。

 智慧とはさとりですから、宗教は限られた人たちとか、特別の人だけのものでなく、生と死からのがれることのできない、しかもエゴであるすべての人びとに、欠かすことのできないものが智慧の宗教であります。

 智慧の宗教は人間の知識から造り出されたものではなく、まことの「法」のはたらきとして真実の世界から至りとどいている教えですから、さとりの宗教と言うわけです。

 日本には天皇を現人神(あらひとかみ)と仰ぐ神を中心とする神道、お釈迦さまのお悟りによる仏教、神が人類に愛をあたえるキリスト教などが同居しているのです。

 さとりの宗教は時代とか環境とか欲望などによって造れるものではなく、変わることのない「よりどころ」根本の経典、聖書、コーランなどが明らかにされ、加えてこれらを更に論じ、解釈したものが伝来しているのです。

 根本聖典のない宗教はその時代性と大衆の好みに応じて宗教的儀式を生み出し、儀式を制度化して、その実践をもって宗教と呼ばれている種類の教えが多いのです。

 このように宗教とは言っても教えの根本になる聖典のない神道は別として、縁起の法を説く仏教はその経によれば、必らず永遠性を有する、必らず正しき原理に基づく、必らず普遍性を有する、必らず絶対性に立つ、必らず転成性があると説かれているのが智慧の宗教であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 皆さんの身のまわりに「宗教」が沢山あると思います。商売繁盛、病気治し、出世開運、学業成就、縁結び、縁切り、息災延命、諸願成就の宗教です。いずれもご利益まちがいないと社寺側は宣伝、広告を堂々とやって人びとを集めています。

 ところが、これらの宗教の中味は人間の欲望から出たものばかりで、人間の目先きの願いなのです。人間の願いは年齢とか職業とか、環境とか、生活とか、時代によって変化するもので、これらの願いをもとにして宗教が造られるものですから「知識の宗教」だと批判されるのです。人間の知識は自己中心のエゴで、自分の都合のいい方向に片寄ると言う偏向性を必らず持っているのです。

 昔話ですが一休さんが蓮如さまに「人間とは」寝て喰って、寝て喰って・・・・と書いて、これが人間であると結んだ手紙を出されたそうです。すると蓮如さまは「人間とは」こうして、ああして、こうしてああして・・・・と同じだけ書かれて、これが人間であると返事を出されたと聞きました。「エゴ」の連続なのです。そのエゴをエゴだと気づかずに、そのエゴが充されなくなったり、困った状態になると神仏に結びついて、充してくださる神さま困らないようにしてくださる仏さまと、人間の分別とエゴの知識から宗教が栄えてくるわけです。本当はそのようなエゴを満足させてくれる神仏はないのですが、自分が信心を造って自分が満足しているので「知識の宗教」と言われるのです。

 エゴはどこまでもエゴです。エゴを一生涯積み重ねてもエゴです。エゴを早くエゴであることにめざめさせてくださる教えが「智慧の宗教」であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

 「日本人は宗教を造る天才である」とヨーロッパの学者が言ったそうです。このことは日本人が宗教に対して、いかにお粗末な考え方しか持っていない国民であるかと言うことを笑っている言葉です。

 日本では宗教を持たないことが普通とされていて、苦労な問題をかかえている人とか、人生の弱さに負けて生きることの危なかしい人が信ずるものが宗教であったり、あるいは信者ではなくとも、死の縁に出会うとか、祭りごとに従事するとか、クリスマスをするとか、新年に神前で拍手を打って頼みごとをすることが宗教であると考えられているのです。平素は「仏ほっとけ神かまうな」式の意識がとても強い国民性があるのです。

 宗教の「宗」という文字は「むね」と読みます。むねは人間の胸と同じ発音ですが、意味もよく似ているのです。人間には胸がとても大切なところで、人間にとって大切でないところはありませんが、中でも胸は心の家です。心の温かい人、思いやりの心の厚い人が、健康第一主義、頭脳明晰型、手腕にたけた人より人から親しまれ心が引かれるのではないでしょうか。宗教は人間にとって欠かすことのできない問題を明確にするものであります。

 宗教の「教」は教えですから、知らないことを言いきかせ、さとし、わからせるとあります。教の文字は「ならう」と「むち」からできているのだと言われている位ですから、宗教とは「人間に、むちをもって教えならわしめる位に欠かすことのできない教え」なのです。今、皆さんの身のまわりにある宗教はともすると、人間が都合のいいように、人間の願いで造った宗教がとても多いので、宗教を造る天才であると思われているのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より

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