法語を味わう
2023年7月

2023年6月

2023年5月

2023年4月
とりあえず
仏さまの声を
聞きましょか
今年になって「ネガティブ・ケイパビリティ」をテーマにした本が続いて出版されました。ケイパビリティは「~できる能力」。ネガティブは「後ろ向き」でしょうか。後ろ向きになれる能力。これ、現代人には確かに欠けているものかもしれません。
映画を早送りで観るのは一般的になってしまいました。「効率的に」・「早 く」・「多 く」が良しとされる風潮の中では、立ち止まって振り返ることさえも「能力」が求められるようです。そんな「能力」はどうしたら得られるのでしょう。
それを考える前にお念仏しましょうか。能力なんてわざわざ求めなくていいよという仏さまの呼びかけが聞こえてきます。
(本願寺派布教使 松本智量)
2023年3月
たった一言が
居場所となり
たった一言が
居場所を奪う
「そんなこともできなくなったの」靴下をなかなかはくことのできない母にかけてしまった言葉です。 一生懸命になっていた母の手は止まってしまいました。はっとして「手伝おうか」と声をかけると、「うん」と頷きました。ただ、その顔に浮かべていたのはとても寂しげな笑みでした。 南無阿弥陀仏は決して居場所を奪わず、どんな時も私の居場所となってくださる如来さまです。それほど深いお慈悲の如来さまを聞かせて頂いているのに・・・・。 すっかり細くなったその足に靴下をはかせながら『ごめん、おかあちゃん・・辛い言葉を聞かせてしまって』心の内で詫びました・・。 ナモアミダブツ。ナモアミダブツ・・お念仏の限りない温もりは、私のいたらなさも気づかせてくださるように思います。(本願寺派布教使 花岡静人)
2023年1月
門 松 は
冥土の旅の一里塚
めでたくもあり
めでたくもなし (一休宗純)
新たな年をお迎えし、親しい方々から受け取る年賀状には「おめでとう」という言葉がよく使われます。これは本来「めで(感心する・褒め讃える)いたし(度合いをはるかに超えている)」という意味で、そこから「大変よろこばしい」時に使われるようになったそうです。本願寺第八代 蓮如上人と交流があったといわれる一休宗純(一休さん)には、こんな逸話が残されています。あるお正月、初孫が生まれたばかりの商人に「おめでたい言葉を書いてもらえませんか」と頼まれます。すると一休さんは「親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ」という言葉を書かれました。これに驚いた商人に「この順番通りでなければどうでしょうか。年をとった人から順番通り死んでゆくということは当たり前のようで難しい。だから、おめでたい言葉なんですよ」と言われたそうです。蓮如上人の 『白骨の御文章』 には、「朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり」「人間のはかなきことは 老少不定のさかいなれば」とお示しされています。どれだけ若く健康な人でも「無常の縁」があればいつ終わるかわからない、たった一度きりの「いのち」、そうした無常の「いのち」を歩んでいるのが「私たちの人生」とのご教示です。いつどこで「無常の風」が吹くか分からない人生の中で「往生浄土」をこころにかけ、阿弥陀さまのご本願をよろこび、お念仏申させていただく日暮らしを歩ませていただくことが大切です。今日もいただくことができた「いのち」、新たな一年、新たな一日をお迎えできたことが「当たり前」ではなかったというありがたさ、尊さをに気づかせていただき「めでたい」一年をご一緒に歩ませていただきましょう。
2022年12月
聖道(しょうどう)の慈悲
浄土(じょうど)の慈悲 (『歎異抄』)
私たちは毎日努力して一生懸命生きています。なのに、なかなかうまく生きられません。一生懸命生きる私は「聖道の慈悲」を生きているのです。
「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがた」いのです。(『歎異抄』)
「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」(『歎異抄』)をいいます。
「浄土の慈悲」に生きたい私ですが、凡夫である私には不可能です。私はやっぱり「聖道の慈悲」に生きるしかありません。でも浄土の慈悲に導かれて歩むことで往生浄土をいただいていくのです。悲しいけれど、楽しい人生がここに拓けるのです。
(本願寺派布教使 殿平善彦)
2022年11月
小さな一歩
それが未来(釈尊)
私たちの人生は何もしていないのに、突然何かを成し遂げたり、目標が叶うということはありません。それがたとえ些細で小さなことであっても、今できることの積み重ねによって、未来は確かに拓かれていきます。仏教の開祖であるお釈迦さまは、「小さな一歩 それが未来」といわれました。いま私がいただいているご縁のなかで、私にできることは一体何なのか、そしてこれからどんな未来をきり拓くことができるのか。そのことを自分なりに考え、私にしか歩むことのできない今日を、仏さまの教えにたずねながら精一杯つとめていきたいと思います。(本願寺派布教使 赤井智顕)
【出拠】
目的が達成されるまで、人はつとめはげむべきである。自分の立てた
目的がその通りに実現されることを思い描きなさい。希望した通りになるだろう。(『ウダーナヴァルガ』・第 16章2偈)
2022年10月
まっさらな
朝のどまんなかに
生きていた
いや
生かされていた
(東井義雄師)
東井義雄師の「目がさめてみたら」という詩の最後の一節です。皆さんは「目がさめてみたら生きていた」ことに驚きや感動を持ったことがありますか?
生きていることが「当たり前」と思っている私たち。そうした私たちに仏さまは「当たり前ではない、多くのご縁によって生かされている」ことを教えてくださいます。
この詩の最後は「生きていた いや 生かされていた」と結ばれています。新しい朝を迎え、今日も「目を覚ますことができた」「生かされていた」という感動が伝わってきます。「当たり前」と思っていたことが、「当たり前ではなかった」という気付きです。
昔、テレビで活躍をされたある司会者の方は、「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」という言葉を大切にされていたそうです。これは仕事で悩んでいた時に、お父様から送られた言葉だそうです。
「今日もまた新しい朝が来た。お前のために朝が来たんだから粗末にするんじゃないぞ。」
朝目が覚めたら生きていたという不思議。もしかしたら目がさめなかったかもしれない。その「いのち」が今日もまた、生かされていたという感動。その不思議と感動を深く味わうところに、また今日も新しい朝が来た、力強く精一杯に歩んで行こうという喜びが湧いてくるのではないでしょうか。
2022年9月
青色には青光
黄色には黄光
赤色には赤光
白色には白光ありて 『仏説阿弥陀経』
『仏説阿弥陀経』には、お浄土の七宝の池には車輪のように大きな様々な色の蓮の花が咲き誇り青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、それぞれが、その個性を最大限に発揮して、力強く、美しく輝いていると説かれています。それぞれの花が、それぞれ持っている色に輝くのは「あたり前」と思われるかもしれませんが、私たち自身の姿(現実)に当てはめて考えてみますと、この当たり前のことが、はたして出来ているでしょうか?「差別や序列をせず、互いを尊重しあい、相共に輝きあう生き方」ではなく、それとは「真逆の生き方をしている」私たちの現実の姿に気付かしめ、悩み・苦しみの多い人生という旅路を、よりよい方向へと導き、転じてくださるのが阿弥陀さまのはかりない智慧の光のはたらき、すなわち南無阿弥陀仏のお念仏のおはたらきであります。お浄土という、荘厳で尊い世界をお聞かせいただく中で、今の私のあり様、本当の姿が見えてくるのです。お浄土は私たちの姿を映す鏡でもあるのです。
(本願寺派布教使 藤 清道)


