法語を味わう
2022年8月
馬の耳にこそ
お 念 仏 が
届いてくださる
恩師の一人が送ってくださった言葉です。本来「馬の耳に念仏」とは、何を言っても聞き入れてくれない事を指して使われる言葉です。親鸞聖人は南無阿弥陀仏のお念仏を「本願招喚の勅命なり」とお示しくださっています。「招」は「招く(まねく)」、「喚」は「喚ぶ(よぶ)」という意味の言葉ですが、聖人は「喚ばふ(よばふ)」と読まれています。これは「喚ぶ」という動詞の未然形に「ふ」という継続を表す助動詞をつけたものだそうです。ですから「喚ばふ」というのは「喚び続け」という意味です。「あなたの命は死んで終わりでなく我が浄土へ生まれると思っておくれ」「あなたの安らぎを願い、あなたの悲しみを共に悲しむ仏がここにいるぞ」と喚び続けてくださるのです。その言葉をなかなか聞き入れない者だから、忘れる者だからこそ阿弥陀さまは喚び続けてくださっているのです。
2022年7月
阿弥陀さまは
いつでも どこでも
この「私」に
はたらいてくださっている
みつめてくださっている
阿弥陀如来は、お念仏をよろこぶ「生きとし生けるもの」(すべてのもの)を救うとはたらき続けてくださっています。「すべてのもの」と聞くと、何事も知識として客観的にとらえがちな私たちは、 それを自分が認識できる「すべて」として考えてしまい、一番大切な「このわたし自身」のことは含まれないと勘違いされる方もいらっしゃいます。しかし「すべてのもの」とは、この「私自身」を除外してしまったら、絶対に成り立つことはありません。「すべてのもの」には「今ここの私」が含まれるからこそ「一人ひとり」を「すべてのもの」といただけるのです。このようにいただくと阿弥陀如来のおはたらきとは「この私」を含めた「すべてのもの」(一切衆生)を救いの「めあて」とした分け隔てなく休むことのない平等なおはたらきである、といただくことができるのです。
2022年4月
己(おの)が身に
引きくらべて
殺してはならぬ
殺さしめてはならぬ
ブッダ(釋尊)
2022年2月24日、ロシア連邦がウクライナへの軍事侵攻に踏み切りました。ウクライナの各都市では子どもを含めた多くの民間人が犠牲となり、加えて100万人を超える国民が難民として避難を余儀なくされていると報道されています。私たち浄土真宗本願寺派は、いかなる理由があろうとも、人命を軽視し、武力で一方的に現状を変更しようとする暴力的な行為に抗議し強く反対の意を表します。このたびのウクライナへの侵攻だけでなく、世界各地でテロや武力紛争が続いている現実があります。あらためて、あらゆる場での暴力の行使を非難するとともに、一刻も早く対話による平和的な解決がなされ、ウクライナに再び平和が訪れますよう願うものです。思想文化や制度による厳しい対立や相互の排除をのり越えて、自他共に心豊かに生きていけるよう、共に努力する先にこそ、恒久的な平和を実現する道が切り拓かれてくるものと確信いたします。
2022(令和4年)3月8日 浄土真宗本願寺派総長 石上 智康
2022年3月
帰る所があるので
待っていてくださるので
安心して
遊んでいられる
淺田正作さん『骨道を行く』
あるお寺の掲示版に「帰る我が家あっての旅である。帰(い)く浄土(ところ)に支えられて人生(たび)が成り立つ」という言葉が紹介されていました。
私たちの人生は「旅」に喩えられることがあります。「旅」は「安心して帰る場所」があるからこそ楽しいものになります。その逆に「安心して帰る場所」「心の拠り処」がなければ行き先の分からない不安に満ちた「放浪」でしかありません。人生は山あり谷あり。平坦な道もあれば上り坂・下り坂、そして思いがけない事が起きる「まさか」という坂もあります。
諸行無常の世界に生きる私たち。誰ひとり「死」から逃れることはできません。 そうした私たちに親鸞聖人は「往生浄土」という道をお示しくださいました。
今生の縁が尽きた後は阿弥陀仏のお浄土に往き生まれ、先立たれ懐かしい方々と仏として再び出遇い、私たちが仏とならせていただけるのです。「死んだらおしまい」という言葉を時々耳にしますが、お念仏のみ教えをいただく私たちの人生は決してその様な虚しいものではありません。自分の「いのち」の来し方行く末を見つめなおし、「死んだら終わり」ではない世界があることを本当の安心、本当の慶びとして日々を前向きに、力強く歩ませていただきたいものです。
2022年1月
生も一度きり
死も一度きり
一度きりの人生だから
一年草のように
独自の花を咲かせよう (坂村真民)
新しい年を迎え、期待や不安に満ちた新たな日々が始まりました。
人生は何事も自分の思い通りになればよいのですがなかなかそのようにはいかないようです。
自分の思い通りになれば機嫌がよくなったり、そうならなければ愚痴をこぼしたり、過去を後悔したり、未来を不安に思ったりしながら、様々な迷いや苦しみの中に生きています。
こうした私たち凡夫を救いの「めあて」として休むことなく寄り添い、はたらき続けてくださるのが阿弥陀如来さまです。
『仏説阿弥陀経』に説かれる「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉は「一度きりの人生を自分の個性を最大限に生かし、自分らしく力強く歩んでくれよ」という阿弥陀如来の願いであり、メッセージであります。
仏教詩人 坂村真民さんは「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」という詩も残されています。
不平不満の人生を歩むのではなく不平不満も言わずに自らが散ってゆく時も悲しむことなく一生懸命に咲いている花や草の「いのち」。
こうした生き様、死に様に思いを馳せ、自分の姿を今いちどふり返り尊いご縁を大切にしながら本年も精一杯歩ませていただきましょう。
2021年12月
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の
弥陀のよび声
「浄土真宗のみ教え」大谷光淳御門主
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるということを大切にします。では、何の為にお念仏を称えるか。それは、お念仏を聞く為です。しかし、それはただ、「南無阿弥陀仏」の声の響きを聞くのではなく、今、私の口に称えられる「南無阿弥陀仏」を「われにまかせよ そのまま救う」という阿弥陀如来からの私一人への確かな仰せとして聞かせていただくのです。
阿弥陀如来は、必ず死んでいかなければならない私に「死んでいくいのちではない、極楽浄土に行き生まれ、仏と成っていくいのちである」と常に呼び続けてくださいます。そのよび声を仰せとして聞きうけて、素直に我が身をお任せしていくところに、後生の安心と慶びが恵まれていくのです。
(本願寺派布教使 伯 浄教)
2021年11月
私を見ていてくださる人があり
私を照らしてくださる人があるので
私はくじけずに こんにちをあるく(榎本 栄一)
詩人であり念仏者でもありました榎本栄一さんの「あるく」という詩です。
人生は嬉しいこと、楽しいことばかりではありません。悲しいこと、苦しいことなど、様々な出来事が次から次へと起こり、思い通りになることは多くはありません。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
煩悩具足の凡夫である私たち、苦しいこと・悲しいことがあると、その原因も考えず、ついつい何かのせいにしてしまいがちな私たち。そうした姿を、休むことなく見まもり続け、つねに寄り添い続け、限りのないお慈悲をふりむけていてくださるのが阿弥陀さまであります。
コロナ禍の中、辛く、悲しく、苦しい思いをされた方が数多くいらっしゃると思います。しかし、そうした悲しみや苦しみが「尊いこと」「有り難いこと」といただくことができるのが「お念仏のはたらき」であります。
私たちは阿弥陀さまの「われにまかせよ、かならず救う」というけっして変わることのないご本願の中に生かされていることに気づかせていただいたとき、この人生を力強く歩んでいくことが出来るのです。
2021年10月
忘れないで
どんなに
厚い雲の上にも
必ず太陽が
あることを
新型コロナウイルス感染拡大による不要不急の外出自粛を求められる生活を送っていますと「あたりまえ」だと思っていたことが実は「あたりまえではなかった」、「あれがほしい、これがほしい」と思っていたことが、よくよく考えてみると実は、「無くても大丈夫なのではないか?」「十分に満たされていたのではないか?」という「少欲知足」の教えが、ふと頭をよぎることがあります。
不平不満、不足ばかりを嘆いてばかりの私たち、煩悩具足の凡夫である私たちですが、こうした状況であるからこそ、周りの方々への思いやりが大切なのではないでしょうか?
「ソーシャルディスタンス」という言葉が聞かれるようになって随分と経ちますが、私たちの「心の距離」は離れずにお互いに寄り添うことが大切に思われます。
コロナ禍の収束がいつになるのかは分かりませんが、必ず終わりはやってきます。こうした苦しい時だからこそ、大悲の親さま・阿弥陀如来に思いを寄せ、お念仏を申させていただく中で、お互いに、敬いたすけあい、日々の生活を心豊かに、そして力強く歩ませていただきたいものです。
2021年9月
安かりし 今日の一日(ひとひ)を 喜びて
み仏(おや)の前に ぬかずきまつる
(大谷姙子様御歌)
アミダとは光明(智慧)無量・寿命(慈悲)無量のことをいいます。光明無量とはどこでも一緒・寿命無量とはいつでも一緒と味わいましょう。大谷姙子(きぬこ)様は、どこでも一緒・いつでも一緒の阿弥陀さまをみ仏(おや)と歌をお詠みになられました。ある女性が嬉し涙しながら、どこでも一緒なら此処のこと、いつでも一緒なら今のこと。そのようなお方はこの世で阿弥陀さましかいませんとお念仏なさいました。阿弥陀仏(おや)は、いつでもどこでも私とご一緒くださるのです。此処に・今、私とご一緒くださるからこそ南無阿弥陀仏とお念仏(み仏のお呼び声)になってくださいます。
2021年8月
安心の
お念仏は
苦悩する
私の居場所
「やまない雨はない」は、お天気キャスターの倉島 厚氏の著書の表題です。彼は、最愛の妻との死別の後、それが原因でうつ病になられました。何事にも気力を失われる中、温かい想いを託された亡き妻の友人の支えで、心の居場所を得て、キャスターとして再起された体験を記された一冊です。人生の様々な悩みも、ともに引き受け支えてくださる方があれば、私の居場所が生まれ、嵐も止む時を迎えます。必ず救うの仏さまの願いは、安心のお念仏として私たちに働きかけています。お念仏は、最も安心できる確かな私の居場所です。仏さまと共に今日の嵐を乗り越えたいものです。
(本願寺派布教使 守 快信)


