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法語を味わう(42)

2021年7月

だから
私にとって
毎日が
死の稽古だ(水上 勉)

 2004年に亡くなった作家の水上勉さんは晩年、心臓の3分の2ほどが壊死したままの身で画家としても活動されました。
 両親の縁によって生をいただいたわが身が息を吸うことを覚えて、吐いたり吸うたりして生きているわけだが、そのどっちか止めてみると死んでしまう。
 幼い頃の禅僧体験や晩年の体験から、わが身は生死一体と受け止め、生存のみへの執着から解放された表現といえるのではないでしょうか。
 死の稽古からさらに、私の生死の問題の解決を仏教は教えています。

(本願寺派布教使 鷲尾 衛鳳)

 

 

2021年6月 

人、死を憎まば 生を愛すべし

存命の喜び

日々に 楽しまざらんや(「徒然草」兼好法師)                        

 もしあなたが本当に死ぬのがいやならばもっと今ある命を愛するべきである。そして生きている喜びを日々大切に楽しまなくてはいけない。愚かな人間は、この楽しみを知らずに、物欲に振り回されてあくせくしているのである。鎌倉時代を生きた兼好法師は「徒然草」の中でこのように述べています。命という宝を忘れて、快楽や金銭という目先の宝ばかり追い求めていては、いつまでたっても心が満たされることはありません。結局、誰もが生きる喜びを楽しもうとしないのは、死を恐れないというよりも、いつも死と隣合わせに生きているという自覚がないからなのではないでしょうか。あなたは、生きることを楽しんでいますか?   
                                    (本願寺派布教使 西郷 教信)

 

 

2021年5月

 あなたの人生に
 かえるところは
  ありますか?
            本願寺津村別院(北御堂)

学生時代、自身で諸々の手配をしながら行き当たりばったりの海外旅行に出掛けていました。初めて訪れた街で最初にすることは、その日の宿の確保です。宿を訪ね宿泊が叶えばその後は好きなように過ごせますが、叶わなければ別の宿を探さなければなりません。仮にその道中で美味しそうなご飯屋さんを見つけても立ち寄る気にはなりませんし、目的としていた観光地の前を通っても「まずは観光」なんて気持ちにはならないのです。人生はよく旅にたとえられます。この命の行く先、かえるところを聞いておかねばこの人生を謳歌することはできないのではないでしょうか。私の命のかえる先を定め、ご用意下さっていると届いて下さったのが阿弥陀さまです。                                                                                                                                 (本願寺派布教使 石川知全)

2021年4月

世にさかる 

  花にも念佛
 
   まうしけり(松 尾 芭 蕉)

             本願寺津村別院(北御堂)

                        

「ただ一度の人生」
奈良の吉野山の近くにある大淀町には、聖徳太子創建と伝わる史跡比曽寺(現在曹洞宗世尊寺)があります。栄枯盛衰を繰り返してきたこの寺院に訪れた俳人 松尾芭蕉の詩だそうです。
 春には境内にいっぱいの桜が咲きます。まばゆい日差しの中で、一心に咲き乱れているその姿。いのちの輝きに思わず「なんまんだぶつ」と呟く声を聞いたのでしょう・・・。
 桜には散ってゆく儚さと、散るはずの中にまだ散っていない不思議があります。「いま生きている」その不思議さ尊さを知らされ、日々に感謝するのが仏教のスタイル。今日もいのち恵まれて南無阿弥陀仏、ただ一度の人生に合掌しつつ歩ませていただきます。
                                    (本願寺派布教使 和氣 秀剛)

2021年3月
慈 悲 と は
仏 さ ま の 智 慧 に
出 遇 わ せ る
はたらきのことです
        本願寺津村別院(北御堂)

「慈悲」というと、私たちは困っている人、苦しんでいる人を助ける行為だと思っています。仏教では、このことを、仏さま(覚者=目覚めた者)の智慧に出遇わせるための働きと解釈します。
 仏教での「智慧」とは、物事を正しくとらえ真理を見極める認識力をいい、知識が多いとか少ないとかの問題ではありません。まことの智慧がなく悟ることが出来ない私たち凡夫の所に、仏に成られた諸仏方が智慧を恵み、働き続け、お届けくださる行為を「慈悲」というのです。違う言い方をすれば、「如来の大悲」「如来の本願」などともいいます。また、「慈悲」とは「方便」ともいい、仏さまが私たちに、お念仏のみ教えに出遇わせるため、配慮され、きっかけ、手立て、手段、お手まわしをはかられることを意味するのです。
                                   (本願寺派布教使 丸山文雄)

2021年2月

 忘れないで
  どんなに厚い雲の上にも
    必ず太陽があることを

この度の新型コロナウイルス感染症拡大を受け、多くの皆さまが今までに経験したことのない苦難を受けておられます。そんな中で、いままで「あたりまえ」だと思っていたことが、実は「あたりまえではなかった」ことに気づかされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 私たちが苦しいなかでも、阿弥陀さまは決して休むことなく、やさしい眼差しで見守っていてくださいます。この苦難がいつまで続くのかは誰にもわかりません。しかし、いつか必ず終わりはやってきます。苦しい時だからこそ、太陽の様に暖かな阿弥陀さまの決して変わることのないご本願(お慈悲)に思いを寄せ、互いに敬いたすけあい、このコロナ禍を力強く歩ませていただきましょう。

                                                                                          本願寺津村別院(北御堂)
                                                                                                         山門掲示板より

2021年1月

本当の賢さとは

  自分の愚かさを

   きちんと理解することです

仏さまの教えを学んで知識を身につけ、賢くなったり、行いを正したりしていくことは大切な一面ですが、それと同時に、学べば学ぶほど自身のどうしようもない愚かな姿に気付かされることも確かではないでしょうか。自身の中身(心の有り様、欲望、自己中心性など)を深く問い、赤裸々なありのままの姿に気付かされる時、賢いどころか、いかに愚かであるかということに驚かされます。自身を正面から見つめ、深く問うことを抜きにして仏法の学びは成り立たないと言えます。自分自身のありのままの姿に正面から向き合って問うことが、知識や教養程度ではなく、本当の賢さ(智慧)であるといただきます。

                                 (本願寺派布教使 井上 慶真)       

2020年12月

正義も 善も やさしさも

時に誰かを傷つける

知らないうちに

正しいことをして、まちがったことはしない。善いことをして、悪いことはしない。そして、やさしい心を持たなければならない。私たちが生きて行く上で、基本的なことだと思います。ところが、正義が人を追いつめることがあります。善行のつもりでやったことが、思わぬ結果を生んでしまうことがあります。やさしい気持ちで言ったはずの言葉が、人を傷つけることがあります。なぜでしょうか。 
 おそらく、判断基準が「私」にあるからです。自分が正しいと信じているから、自分を押しつけ、他から学ばないのです。私はそうやって生きてきたのでしょう。ひょっとしたら、あなたも。宗教とは、その「私」が呼び覚まされていく世界なのです。                
                                  (本願寺派布教使 寺澤  真琴) 

2020年11月

阿弥陀仏

縁なき衆生(わたし)

すくいます

 「縁なき衆生は度し難し」という諺があります。この諺は、どんなに慈悲深い仏さまであっても、初めから仏の教えを聞く思いがない者、信じようとしない者は救うことができないという意味です。 
 しかし、阿弥陀という仏さまは、そのような自ら縁を断って逃げている者を救わずにはおられないのです。他のあらゆる仏さまが匙を投げた者に大きなお慈悲のお心で「あなたを救う仏がここにいるよ」と何度も喚び続けてくださいます。
 「南無阿弥陀仏」とお念仏申す中に、  その衆生こそ他の誰でもないこの私でしたと知らされていくのが、浄土真宗のお聴聞です。

                                     (本願寺派布教使 佐藤知水) 

2020年10月

         

だが正論を武器にする奴は正しくない

お前が使ってるのはどっちだ?

(出典「図書館戦争」有川浩)

 新型コロナウイルス禍の中、ウイルスそのものの怖さよりも人間の本当の恐ろしさを、まざまざと見せ付けられた気がします。感染された方や医療従事者への差別や偏見に触れた時、私たちは歴史から何も学べていない、そんなふうに感じます。 
 どの時代にも常識といわれる正論がありますが、時代や場所が変われば通用しません。ですが人間は誰もが正論を持ち合わせています。間違いがないと思い込んでいます。その正論を盾に相手を指摘・攻撃します。
 南無阿弥陀仏のお念仏をいただく私たちは、我が身を愚かだと受け取っていきます。私の正論ではからず、真実の教えにはかりながら歩みを進めてまいりましょう。

                                                      (本願寺派布教使 石田博文)

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