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法語を味わう(22)

仏法(ぶっぽう)は
 聞(き)けば聞(き)くほど
  落(お) ちてゆく
どこ へ?
 阿弥陀仏(あみだぶつ)の胸(むね)の中(なか)へ

 私(わたし)たちは賢(かしこ)くなりたいし、他(ほか)の人(ひと)からも、より良(よ)く見(み)られたいものです。でも仏法(ぶっぽう)は聞(き)けば聞(き)くほど、自分(じぶん)が何(なに)も判(わか)っていなかったことに気付(きづ)かされてゆきます。聞(き)けば聞(き)くほど愚(おろ)かであったと気付(きづ)かされてゆきます。自分(じぶん)の中(なか)には何一(なにひと)つ誇(ほこ)るものがない、でもだからこそ阿弥陀仏(あみだぶつ)はそんな何者(なにもの)にもなれない、この私(わたし)をしっかりと抱(いだ)いていてくださることも知(し)らされます。浄土(じょうど)は愚(おろ)かなまま落(お)ちてゆくところです。

 逆(ぎゃく)に、より賢明(けんめい)になったと思(おも)い込(こ)み、他者(たしゃ)を追(お)い越(こ)して、より上(うえ)に上(うえ)に這(は)い上(あ)がってゆく先(さき)にあるのが地獄(じごく)です。

(本願寺派布教使 福間 義朝(ふくま ぎちょう))

仏(ほとけ) さ ま に
つつまれた日々(ひび)
大安(たいあん)も友引(ともびき)もなし
(京都府和束町仏教会)

 よくよく聞(き)かせていただき、考(かんが)えてみれば、私(わたし)たちはお互(たが)いに、得(え)がたい人(ひと)としてのいのちを恵(めぐ)まれています。

 しかも、それは「限(かぎ)りある人(ひと)」としての「いのち」です。だからこそ、二度(にど)とない一日(いちにち)一日(いちにち)であり、大切(たいせつ)な大切(たいせつ)な「ひととき」です。そして、私(わたし)が存在(そんざい)するあらゆる所(ところ)すべて、いずれも、かけがえのない場所(ばしょ)でもあります。

 アミダさま(仏(ほとけ)さま)と共(とも)に生(い)きゆく道筋(みちすじ)には、私(わたし)にとって日(ひ)や方角(ほうがく)の善(よ)し悪(あ)し、吉凶(きっきょう)などを選(えら)びとる必要(ひつよう)もなければ、用事(ようじ)もないのです。

(本願寺派布教使  岡橋 聖舟(おかはし せいしゅう))

南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)、
 これすなわち
われらが往生(おうじょう)の
 定(さだ)まりたる
  証拠(しょうこ)なり(『御文章(ごぶんしょう)』)

 あなたを仏(ほとけ)に出来(でき)ないなら、私(わたし)は仏(ほとけ)と名告(なの)らない。そう誓(ちか)われた法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が今(いま)、阿弥陀仏(あみだぶつ)となって、私(わたし)を仏(ほとけ)さまにしてくださる仏(ほとけ)がいることを私(わたし)に告(つ)げてくださっています。南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)は、私(わたし)が浄土(じょうど)に生(う)まれ仏(ほとけ)になることが決定(けってい)している証拠(しょうこ)です。

 浄土(じょうど)に生(う)まれることは臨終(りんじゅう)の時(とき)、仏(ほとけ)さまの悟(さと)りを私(わたし)が聞(き)かせて頂(いただ)くということです。あなたは仏(ほとけ)さまになる日々(ひび)を生(い)きています。そのことを私(わたし)に告(つ)げてくださるのが南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)のお名号(みょうごう)です。

 (本願寺派布教使 阿部 信幾(あべ しんき))

心(こころ)が洗(あら)われたことなど
 一度(いちど)もない
私(わたし)が 弥陀(みだ)の大悲(だいひ)で
 救(すく)われる (大峯 顯(おおみね あきら))

 私(わたし)たちは、ご法話(ほうわ)を聞(き)いたり、お寺(てら)にお参(まい)りすると心(こころ)がきれいになると思(おも)いがちです。けれども、その大部分(だいぶぶん)は思(おも)いちがいではないでしょうか。外(そと)に出(で)たらいつもの私(わたし)です。私(わたし)はほとんど変(か)わっていません。それでいて、やはり何(なに)か良(よ)いことをして認(みと)められたい。これが私(わたし)の本性(ほんしょう)なのかもしれません。

 少(すこ)しくらいきれいになっても、すぐに自分(じぶん)で汚(よご)してしまうのが私(わたし)です。このことを阿弥陀(あみだ)さまはよくご存知(ぞんじ)で、この凡夫(ぼんぶ)の悲(かな)しみに同化(どうか)してくださるのです。これが阿弥陀(あみだ)の大慈悲(だいじひ)です。

 そして、凡夫(ぼんぶ)の私(わたし)たちを救(すく)う道(みち)があると告(つ)げてくださるのです。 

(本願寺派布教使 寺澤 真琴(てらさわ まこと))

人身(にんじん)受(う)け難(がた)し
今(いま)すでに受(う)く
『礼讃(らいさん)文(もん)』
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し
今(いま)すでに受(う)く

 これは仏教的(ぶっきょうてき)な考(かんが)え方(かた)です。仏教(ぶっきょう)はすべてのものは、因(いん)(直接的(ちょくせつてき)原因(げんいん))と縁(えん)(間接的(かんせつてき)原因(げんいん))によって生(しょう)じていると観(み)ます。誰(だれ)かによって造(つく)られたいのち、或(ある)いは、一(ひと)つの因(いん)と一(ひと)つの縁(えん)によって在(あ)るというのではなく、無量(むりょう)無数(むすう)の因(いん)と縁(えん)によって成(な)り立(た)っていると考(かんが)えます。いのちは無数(むすう)に存在(そんざい)するが、人間(にんげん)としていのちを頂(いただ)くことは滅多(めった)に無(な)いという感動(かんどう)です。

 私(わたし)たちは、人間(にんげん)に生(う)まれたことを当(あ)たり前(まえ)と思(おも)って生活(せいかつ)しています。人生(じんせい)は楽(たの)しいこと嬉(うれ)しいことだけではありません。悲(かな)しみや淋(さび)しさ、病苦(びょうく)や別離(べつり)との二人三脚(ににんさんきゃく)でもありますが、様々(さまざま)なご縁(えん)によって人間(にんげん)に生(う)まれさせていただいたということを本当(ほんとう)に見(み)つめ直(なお)し考(かんが)えたいことです。         

本願寺派(ほんがんじは)布教使(ふきょうし) 藤田 眞哲(ふじた しんてつ)

人生を  
 常にスタートとみるのは
  人間の知恵
死をも 
 スタートとみるのは 
  如来の智慧 (大在 紀)

 学校(がっこう)の卒業(そつぎょう)はゴールではなく社会(しゃかい)生活(せいかつ)のスタートです。結婚(けっこん)もゴールではなく夫婦(ふうふ)生活(せいかつ)のスタートです。退職(たいしょく)も第二(だいに)の人生(じんせい)のスタートです。病気(びょうき)になるのも闘病(とうびょう)生活(せいかつ)のスタートです。
 人間(にんげん)は一生(いっしょう)の間(かん)、ゴールではなく「スタート」を繰(く)り返(かえ)します。
 ところが、人間(にんげん)の浅(あさ)はかな知恵(ちえ)では「死(し)んだら終(お)わり」になってしまいます。阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の智慧(ちえ)は死(し)をも「往生(おうじょう)」というスタートに変(か)えて、私(わたし)の心(こころ)を前向(まえむ)きに変(か)えてくださいます。「往生(おうじょう)」とは、成仏(じょうぶつ)へのスタートであり、成仏(じょうぶつ)は私(わたし)の、生(い)きとし生(い)けるもの、すべてを救(すく)う仏(ほとけ)としてのスタートなのです。

ものを見るとき
 価値を見る
そこに意味を
 見る世界が加わる

人間(にんげん)のものの見方(みかた)には二(ふた)つあります。
一(ひと)つには値段(ねだん)や品数(しなかず)、味(あじ)や食(た)べやすさ、満腹感(まんぷくかん)など、価値(かち)を計算(けいさん)する見方(みかた)です。
二(ふた)つには、その中(なか)にある意味(いみ)を感(かん)じ取(と)る世界(せかい)の見方(みかた)です。ご飯(はん)に敬語(けいご)を使(つか)っていただくという意味(いみ)や、多(おお)くの食材(しょくざい)の「いのち」とたくさんの人(ひと)の味付(あじつ)けと手間(てま)など、そこに思(おも)いを馳(は)せる意味(いみ)を知(し)らされる世界(せかい)です。
そのことを知(し)らされると、お金(かね)では計算(けいさん)できない物(もの)を大切(たいせつ)にする心(こころ)、「いただきます」と「ごちそうさま」、そして「ありがとう」という世界(せかい)が広(ひろ)がります。

(本願寺派布教使 井上 博雄(いのうえ はくゆう))

「歳はとりたくない
 しかし
 長生きはしたい
 この虫のよい私

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』に、「貪愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ) 常覆)真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)」とお示(しめ)しです。

貪愛(とんあい)というむさぼり、瞋憎(しんぞう)といういかりは、雲(くも)や霧(きり)のように常(つね)に私(わたし)を覆(おお)っています。都合(つごう)のいいことなら手(て)に入れたい、都合(つごう)の悪(わる)いことならあっちにいけ。しかし、どれだけ欲(よく)を満(み)たし、邪魔(じゃま)ものを排除(はいじょ)しても、次(つぎ)から次(つぎ)へと満(み)たされない心(こころ)が生(う)まれます。同(おな)じところをグルグル回(まわ)っているだけで、新(あたら)しい生(い)き方(かた)が生(う)まれないことに気(き)づかない迷(まよ)いの私(わたし)だからこそ、阿弥陀(あみだ)さまのお慈悲(じひ)は、この世(よ)の迷(まよ)いを超(こ)えた生(い)き方(かた)をお勧(すす)めくださいます。

(本願寺派布教使 本多 靜芳(ほんだ しずよし))

「我慢」
 と言ったら
 要注意!

上司(じょうし)から嫌味(いやみ)や小言(こごと)を延々(えんえん)言(い)われても、グッとこらえて「我慢(がまん)、我慢(がまん)」と自分(じぶん)に言(い)い聞(き)かせる・・・

ところで、この「我慢(がまん)」という言葉(ことば)、もともと仏教用語(ぶっきょうようご)であったということをご存知(ぞんじ)でしたか?

一般的(いっぱんてき)には自分自身(じぶんじしん)を抑制(よくせい)し、また耐(た)えるという意味合(いみあ)いで使(つか)われていますが、これは「我意(がい)を張(は)る」などという強情(ごうじょう)な心意(しんい)を介(かい)した転用(てんよう)で、本来(ほんらい)の意味(いみ)は、強(つよ)い自己(じこ)意識(いしき)から起(お)こす慢心(まんしん)、つまり「自分(じぶん)を偉(えら)く思(おも)い、他人(たにん)を蔑(さげす)むこと」と言(い)えます。

「我慢(がまん)」という言葉(ことば)が思(おも)わず出(で)た時(とき)こそ、自分(じぶん)自身(じしん)を謙虚(けんきょ)に見(み)つめ直(なお)すシグナルとしてみてはいかがでしょう。

(本願寺派布教使 木賣 慈教(きうり じきょう))

このいのち
念仏不思議に
生かされて
苦悩が歓喜と
変わりけるなり

私たちは、欲望を満たすことをいつも考え、幼い時から、生活の中で培った知識を駆使して、いつも損得勘定で生きてきました。

阿弥陀如来の「智慧」の光に照らされ、この世の衆生を救うという「真実の願い」に出遇えた私が、「こんなにも愚かなことをとめどもなく求め続けてきたのか」と気づかせていただき、悩みを超えて、真実に導かれていくはたらきそのものが、「南無阿弥陀仏」のお念仏であります。

そして、仏さまの智慧に照らされ、「苦悩」とは、この「いのち」が生滅するから苦しいのではなく、生滅する存在であるにもかかわらず、それに執着するこの私が、「苦悩」に苦しんでいたことに気づかされ、お念仏(ねんぶつ)申す身にお育ていただくのです。

本願寺派布教使 藤浪 正明

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