因幡の源左さん
昭和のはじめに因幡の源左という念仏者がおりました。因幡とは、現在の鳥取県にあたります。
連日の雨に村人達は、空を恨めしそうにながめていました。
「なんといういまいましい雨だ」「これじゃあ畑仕事もできん」村人達は、口々に愚痴をいいます。
そこへかさもつけずにずぶぬれになった源左さんが通りかかりました。この雨にさぞかし困った顔をしているかと思いきや、なんだかうれしそうです。不審に思ってたずねてみると、「この雨ではじめて気づいたが、鼻が下向いててよかったなあ」と、答えたそうです。もし鼻が上むいてついていたら、雨が鼻に入ってたいへんです。
またある時、家で縄を編んでいたときのこと、ふと手を止めてじっと手を見つめている源左さんに隣にいた奥さんが、「あんた、とげでも刺さったのかい。」とたずねると、「いいや」と、首をふって、また手を見つめています。
しばらくしてお念仏をとなえながら、「鎌や鍬なら使えばすり減って、1回や2回は修理して使えるが、すぐにダメになる。それにひきかえ、このおらの手はなんぼ使ってもすり減るどころか、皮が厚くなって使いやすくなる。なんとありがたいことかなあ。」と、よろこんだということです。
いわれてみれば、あたりまえのこととして気にもとめない事柄もあらためて見直してみると新たな発見につながります。
隣が車を買い替えたのに、近所に家が建ったのに、お向かいの家の子供はどこどこの大学に受かったのに、それなのにうちは…。
私たちの生活は、目を外にばかりむけて不満だらけの毎日です。
今、在ることのすばらしさを忘れてしまっているような気がします。そういえば、仏さまの眼は半眼といって、半分外を見て、半分は自分自身をみつめていらっしゃいます。
もう一度、自分自身を見直してみたいものです。
『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より