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西の旅

 親鸞聖人は、よく阿弥陀様の「すくい」のはたらきを船にたとえられます。

 私の煩悩を海にたとえられまして、煩悩の海を渡し、さとりの世界へ入らしめさせるはたらきを船としておられるのです。

 煩悩とは、物事をありのままに見ることができず、自分の都合でしか見ることのできない心(愚痴)。少し思いがかなうと、満足することを知らずさらに欲を生む心(貪欲)。思い通りにならないと、腹を立て、うらみ、つらみを生む心(瞋恚)。の3つに代表されますが、これらが決してとどまることなく、次から次へと荒れ狂っているのです。

 心という言葉の語源は、コロコロだと聞きました。コロコロはボールの動いている状態で、あれもこれもと、常に動くことを表現しており、これの縮まったのがココロだと聞き、納得させられたものです。

 なぜ船にたとえるのかと言いますと、私は自力無効、つまり、船に乗せられたならば、私が寝てようが立っていようが、じっとしていようが走っていようが、私の働きは船の進行に何の関係もない。何の役にも立たないと味わっております。役に立たないどころか、動くほど、船のはたらきのジャマをしているのです。

 そして、「目的があるから航海、なければ漂流」と言われますように、ただ水面に浮いているだけでは、船のはたらきをまっとうしたことにはなりません。目的の港に間違いなく運びとどけてこそ、船の役目を果たしたといえるのです。

 南無阿弥陀仏の六字名号は、この私を仏にするための手立てが、すべてまどかに出来上がっており、何一つとして碍りになるものがない、大きなはたらき、すぐれた徳でありますから、私の方は、煩悩を持ったまま、このままですくわれて往くのであります。

6代目笑福亭松鶴師匠の辞世が、
煩悩を 我もふりわけ 西の旅

 であったとお伺いしましたが、まさにこの六字名号のはたらきを言いあらわしておられます。

 私の方では、煩悩をふり分け荷物にしてかついでいるまんまであるが、お浄土へ帰らさせていただきますと、詠まれているのであります。

 自分で選んだわけではないけれども、気付いたときには、すでに南無阿弥陀仏のすくいの船の中にあったのが、この私であります。この身を、大功に喜ばさせていただきたいものであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より

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