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絶対孤独の人生を支えるもの

 ある家庭の仲のいい夫婦のお話です。ご主人は食べ物がおさまりにくくなって、気にしつつも日が過ぎて行きました。ついにどうにもならなくなって、病院に行かれると膵臓ガンが腸までおよんでいたそうです。根本的な治療はかなわず、一時的なバイパス手術によって退院されました。お参りに行きますと、かなり痩せてはおられますがお元気そうです。「ずいぶんお金がかかっちゃって、力をつけてもうひと稼ぎしないとね」とおっしゃる。奥さんは「そうよ、元がかかってんのよ。取り返さなくっちゃ」と励まされるのです。

 ご本人は病に立ち向かうお心に溢れてなさいましたが、一時しのぎの手術です、二ヶ月ほどで再入院となりました。お体は衰えてゆく一方です。その苛立ちをぶつける相手は奥さんしかありません。それでも毎日奥さんは病院に通われます。

 ある日のこと、もうご自身では外に出られるお体ではないんですが、ふとおっしゃった。
 「かあちゃん、二人で旅行しようや」
 「あら、あなたどこに行きたいのよ」
 「海の見えるとこに行こうや」
 「そんなとこ行って何がしたいのよ」
 「かあちゃん、俺と一緒に死のうや」
と、おっしゃったそうです。

 ご主人は衰えてゆく体を、もう自分ではどうにもできん。その孤独の中で、かあちゃん一緒に死んでくれやと甘えなさったんですね。その時奥さんは何とおっしゃったか。「そうできたらいいね」と、優しくはおっしゃらなかった。思わず、「いやよ、あなた先に行きなさいよ。私まだしなきゃならないことがたくさんあるんだから」。父ちゃんはその言葉を聞いて我に帰った。そうやった、どれほど励ましてそばにいてくれたとしても、この身ひとつの命やなぁ。

 それから一ヵ月半ほど後に、奥さんの母親のご法事を勤めるという約束でした。当日病院から一時帰宅の許可が出ました。やつれ果てたお姿に、ご親戚の方々は涙溢れての再会です。お母さんのご縁でありながら、まさにご当人とのお別れのご法事となりました。

 「阿弥陀さまを知らせてもらってよかったですね。この人生が迷いの境界の打ち止めです。息の切れたその時がお浄土。もう死んでいくことに力はいらないのです。ここにいる我々もやがてまもなくお浄土に参ります。また会える世界がありましたね。」
 その後は場所を移してのお斎の席でした。父ちゃんは力を振り絞って声とならない声で、皆にお礼言上をなさいました。その役目を果し遂げると、息子さんに送られて病院へと戻って行かれます。その車中「お寺へ参って参って説教聞かにゃ」と語り残して下さいました。そうして十日あまり後、命終わってゆかれたのです。どれ程に支え合うご夫婦であろうと、命を共にはできないのです。その絶対孤独の私に入り満ちて下さる、それはただ一つ、南無阿弥陀仏。「独りじゃないよ、如来は今ここにいるのだよと」。

『聞法1998(平成10)年9月21日発行』 (著者 :若林 眞人)より

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