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死んでから旅はしないのです

 お葬式がご縁となって、はじめてお参りをさせていただく、そういうご家庭があります。ある時、九〇歳近いご主人がお亡くなりになったということで、浄土真宗のお寺を尋ねられたのです。そうして私のところにお葬式の依頼がありました。私はお葬式にはでられず、初七日にはじめてお参りさせていただきました。ご家族の関係については、父から聞いてはおりましたが、お会いするまでは、想像もできません。

 さて、初七日のお勤めの後、ご家族との間で中陰の間の心構えなどが話題となりました。俗にロウソクが消えたら、線香が消えたら道に迷うなどと言う人があります。ふとそのことで、「命終わって旅をなさるんじゃありませんよ。旅は終わられたんです。今はもうお浄土の仏さまです。」

 すると、壁に背中をもたれるようにして静かに耳を傾けておられたおばあさんが、色の着いた眼鏡をかけ、その目を閉じたままおっしゃいました。

 「ああ、そうですか。命終わって旅はしなくてよかったんですね。私は三十なかばの頃から目が見えんようになって五十年になります。このたび夫を亡くしまして、みなさんのお力で無事にお葬式を勤めさせてもらいましたが、私も間もなく命終わっていかにゃなりません。もし、独りで旅をせにゃならんのやったらどうしようかと案じておりました。ああ、旅はしなくてよかったんですねぇ。なんまんだぶ、なんまんだぶ……」

 そうでしたか、三十代なかばで目がみえなくなった奥さんを、ご主人は目となり手となり足となって支えて来なさった。妻としてその夫を見送ったという安堵感の中に、今度は自身の死を見つめなさいます。支えてくれた夫はもういない。独り旅をするなら目の見えぬ私はどうしようか。

 「おばあさん、今がね、阿弥陀さまの摂取不捨の道中ですよ。摂取心光常照護。もうあなたをすてないよ。摂め取って捨てないというおはたらきのまっただ中に今日一日があるのです。よかったですね。今が道中、息の切れたその時は、もう旅の終わり、お

  浄土の仏さまなんですね。」
  煩悩に まなこさえられて
  摂取の光明 みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身を てらすなり
  【親鸞聖人『高僧和讃』】

 命終わって迷いの世界に旅立つとは、なんと悲しいこと。そんなことは一切心配いらぬこと。まさに今が道中じゃありませんか。

『聞法1998(平成10)年9月21日発行』 (著者 :若林眞人)より

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