生活信条 第三
一、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます。
お参りに行く途中数人の子どもが遊んでおりましたら、私の姿を見て「お坊さん、だれか、死んだんか」と聞いてくるのです。
子どもさんから見れば、死すなわちお坊さん、いや、大人も同じ見方をしています。
僧侶イコール葬式なのかもしれません。本来、仏教は真実の世界、悟りの世界に到る事を目的とするみ教えであります。
しかし世間では悲しい事に悟りを得るという事は大した問題ではないようです。
そんな事よりも物やお金を求めて、幸福者になろう、それが充実した人生であるという考え方であります。
しかしながら、悲しいかな私たちは我欲を中心に生きていますから、求めても不足・不満・虚仮不実でありますから、(求め欲するものを得られない苦しみ)求不得苦に悩まされるのであります。だから永遠の幸福は我執を軸にして生きていると最後まで「幸福者でございます」の心持ちが湧き出てこないのであります。
しかし、み仏の教えに耳を傾ける事によって(求め欲するものを得られない苦しみ)求不得苦の歩みを通して、如来の本願の名号が、私に、めざめよ、めざめよと働きづめであったと気づかせて頂くのであります。
この如来の働きという事実にめざめさせて頂くときから、私達は、有・無をこえた満足の生活、永遠の幸福の身にさせていただくのであります。
私が市役所に勤めていた時の友人で肺真菌症という病気で三十七才の若さで亡くなられた方がおりました。
その彼は真言宗でありましたが、私のお寺の報恩講に二、三度お参りにきたことがあります。
浄土真宗のみ教えが死ぬまで十万回の念仏を称えよ、死ぬまで確かな信心をつくってこいよとの条件がつくなら、友人の彼は救われていないことになります。
間違いだらけの私が間違えさせないのお念仏に救われていくのであります。
私達は一人でも多く真実のみ教えを伝えさせていただくことが報恩感謝の営みであります。
『聞法(1999(平成11)年7月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より