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法語を味わう(4)

今生の
 納めのさくら
観る人も
 あるべしおのれと
誰れか思はむ

(蒔田さくら子歌集『鱗翅目』より)

「今(いま)見入(みい)っている桜(さくら)が今生(こんじょう)の見納(みおさ)めの桜(さくら)となる人(ひと)もいるだろう。しかし、それを自分(じぶん)のことと思(おも)う人(ひと)は、一人(ひとり)もいない」ということを詩(うた)ったものです。

私(わたし)のいのちは、自分(じぶん)の所有物(しょゆうぶつ)の様(よう)に思(おも)っていますが、自分(じぶん)で思(おも)い通(どお)りにできないのが本当(ほんとう)です。目覚(めざ)めた時(とき)より、誰(だれ)も経験(けいけん)したことのない一日(いちにち)が始(はじ)まるのです。

蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は『御文章(ごぶんしょう)(白骨(はっこつ)章(しょう))』の中(なか)に「われや先(さき)、人(ひと)や先(さき)、今日(きょう)ともしらず、明日(あす)ともしらず」と仰(おっしゃ)られました。その様(よう)に自(みずか)らのあり方(かた)を見据(みす)える時(とき)、毎年(まいねん)同(おな)じ様(よう)に咲(さ)いていると思(おも)っていた桜(さくら)の花(はな)もキラキラと輝(かがや)きだすのです。

明日(あす)の保証(ほしょう)のない「私(わたし)のいのち」と気付(きづ)かされる時(とき)、一日(いちにち)一日(いちにち)を大切(たいせつ)に過(す)ごさせて頂(いただ)くことができるのです。

本願寺派布教使(ほんがんじはふきょうし) 本多 昌道(ほんだ しょうどう)
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