法語を味わう(6)
形によらねばわからぬが
形だけをみていては
本当のことを見失う
形(かたち)がないものは形(かたち)をとおしてはじめて知(し)ることができます。
形(かたち)がないものに、私(わたし)たちの心(こころ)があります。自分(じぶん)の気持(きも)ちを相手(あいて)に知(し)ってもらうために、言葉(ことば)や態度(たいど)といった形(かたち)をもって自分(じぶん)の気持(きも)ちを伝(つた)えています。でも、形(かたち)は繕(つくろ)うことができます。だから形(かたち)だけを見(み)ていたのでは、本当(ほんとう)のことを見失(みうしな)うことがあります。
阿彌陀(あみだ)さまも姿形(すがたかたち)はありません。言葉(ことば)で表現(ひょうげん)することも思(おも)い描(か)くこともできないのが本当(ほんとう)の阿彌陀(あみだ)さまだと。そのままでは私(わたし)たちがその存在(そんざい)を知(し)ることはありませんでした。気(き)づかしめようと阿彌陀(あみだ)さまの方(ほう)から歩(あゆ)み寄(よ)り、姿(すがた)・言葉(ことば)となって現(あらわ)れてくださったのです。
その姿(すがた)を木(き)に彫(ぼ)り絵像(えぞう)に描(えが)き阿弥陀(あみだ)さまだと思(おも)って手(て)を合(あ)わせてきました。そして、至(いた)り届(とど)いた言葉(ことば)がお念仏(ねんぶつ)だったのですね。
本願寺派布教使(ほんがんじはふきょうし) 宮本 義宣(みやもと ぎせん)