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法語を味わう(7)

死ぬまでは
愚者といはれた
佛かな

 私(わたし)たちは、自(みずか)らを愚(おろ)かな者(もの)とは思(おも)えません。ところが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「愚禿(ぐとく)」と名乗(なの)られ、源空聖人(げんくうしょうにん)は「愚痴(ぐち)の法然房(ほうねんぼう)」と称(しょう)され、源信僧都(げんしんそうず)は「予(よ)ガ如(ごと)キ頑魯之者(がんろのもの)」と自戒(じかい)されました。

 南無阿弥陀佛(なもあみだぶつ)のおいわれをよくよく聴聞(ちょうもん)すれば、『歎異抄(たんにしょう)』に「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)をたすけんがための願(がん)にまします」とあるように、煩悩(ぼんのう)と罪業(ざいごう)に明(あ)け暮(く)れる愚(おろ)かな私(わたし)と気付(きづ)かせ、そんな私(わたし)を必(かなら)ず助(たす)ける本願力(ほんがんりき)の力強(ちからづよ)さ有(あ)り難(がた)さが尊(とうと)く味(あじ)わえるでしょう。

 利井鮮妙師(かがいせんみょうし)が、現世(げんせ)では愚者(ぐしゃ)となって弥陀(みだ)の本願(ほんがん)を仰(あお)ぐ人(ひと)は、来世(らいせ)では浄土(じょうど)に生(う)れて佛(ほとけ)になると詠(よ)まれた一首(いっしゅ)に、真宗(しんしゅう)のみ教(おし)えの深遠(しんえん)さを味(あじ)わっていただけたらと存(ぞん)じます。

本願寺派布教使(ほんがんじはふきょうし) 桑原 浄昭(くわはら じょうしょう)

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