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法語を味わう(12)

私がつくった
「安心」は
いともたやすく
崩れゆく

私(わたし)がまだ学生(がくせい)の頃(ころ)、「わたしゃ阿弥陀(あみだ)さまがご一緒(いっしょ)だから安心(あんしん)よ」と仰(おっしゃ)るご門徒(もんと)さんがおられました。しかし、それを聞(き)いても何(なに)が安心(あんしん)なのか分(わ)かりません。自分(じぶん)の心(こころ)模様(もよう)ばかり気(き)になって、安心(あんしん)なんてできませんでした。

浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)のお救(すく)いは私(わたし)が安心(あんしん)した「から」、喜(よろこ)べるようになった「から」、称(とな)えた「から」救(すく)われる訳(わけ)ではありません。「から」はこちら側(がわ)につけるのではありません。阿弥陀(あみだ)さまが私(わたし)のために長(なが)い間(あいだ)ご苦労(くろう)されて、私(わたし)が救(すく)われるすべてをととのえてくださった「から」私(わたし)は救(すく)われてゆくのです。この「から」は向(む)こうさまにつくのです、と教(おし)えていただきました。 すべてをご用意(ようい)くださった阿弥陀(あみだ)さまの胸(むね)の中(なか)で、ほんとうの「安心(あんしん)」をいただくのです。

(本願寺派布教使 宗 秀融(そう ひであき))

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