法語を味わう(28)
「親子(おやこ)の年齢(ねんれい)は同(おな)じです」
エッ?
どうして?
親(おや)が子(こ)を産(う)むのではありません。子(こ)どもが生(う)まれると同時(どうじ)に親(おや)になる(親(おや)の誕生(たんじょう))のです。ですから親子(おやこ)の年齢(ねんれい)は同(おな)じなのです。
何人(なんにん)の子(こ)どもが生(う)まれても、その子(こ)の親(おや)になるのですから、やはり同年(どうねん)齢(れい)となるのです。ナルホド!!
同(おな)じように弟(おとうと)が生(う)まれて兄(あに)・姉(あね)になり、妹(いもうと)が生(う)まれて姉(あね)・兄(あに)になるので、兄(あに)・弟(おとうと)・姉(あね)・妹(いもうと)も同年(どうねん)齢(れい)です。
さらにお孫(まご)さんが生(う)まれると同時(どうじ)にお祖父(じい)ちゃん・お祖母(ばあ)ちゃんの誕生(たんじょう)です。ですから祖父母(そふぼ)とお孫(まご)さんも同年(どうねん)齢(れい)です。ナルホド!!
このような考(かんが)え方(かた)は、お釈迦(しゃか)さまが悟(さと)られた『縁起(えんぎ)』の思想(しそう)です。「彼(かれ)あるが故(ゆえ)に、これあり」「彼(かれ)生(しょう)ずるが故(ゆえ)に、これ生(しょう)ず」とお示(しめ)しいただいたように、私(わたし)たちはお互(たが)いに持(も)ちつ持(も)たれつの存在(そんざい)なのです。
自分(じぶん)一人(ひとり)で存在(そんざい)するのではなく多(おお)くの「因(いん)」と「縁(えん)」に支(ささ)えられた私(わたし)の「いのち」なのです。
(本願寺派布教使 藤井 邦麿(ふじい くにまろ))